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 それが試験前だからなのか、元々放課後はそういうものなのかはわからないけれど、その場所は私が訪れるときいつもまるで貸し切りのようにほとんど人がいない。
 もちろんそれは私にとっては好都合なことで、だからこそその人もこの場所を選んでくれたのかもしれないけれど、静まり返り、どこか遠くからしか音が聞こえてこないそこは私を少しだけ緊張させていた。
 待ち合わせの場所としては最適だけど、お喋りの場所としてはまったく適していない図書館の方が、もしかしたら同じ静かさでも人がいる分賑やかかもしれないとさえ思う。
 高等部のミルクホール。図書館で落ち合ったその人に連れられて、私はその隅のテーブルで「相談」がはじまるのを待っていた。
 そして、どこかぼんやりとしたつぶやきがテーブルの反対側から漏れる。
「こんなこと、前にもあったわね」
 私と向かい合っている真美さまは、紙パックのりんごジュースにストローを刺すとそれに口をつける前にそうつぶやいて、それからゆっくりと吸い上げた。
 ちゅーっ、とそんな音が聞こえてきそうなのはこの場所が静まり返っているからか、真美さまが美味しそうにそれを飲んでいるからなのかはわからないけれど、いずれにしてもそれをきっかけに私も自分の同じりんごジュースに口をつけた。大喜びして「はいっ。ありました!」なんて言いたい気持ちを抑えながら。
(覚えていてくれたんだ……)
 そんな風に恥ずかしくはしゃいでしまわないようにこっそり胸の中で気持ちを温める。にやにやしないよう努めて表情を変えずにすするりんごジュースもあの日と同じように美味しい。
 すると、先に一口目を終えた真美さまはまたふんわりと、だけど今度は聞き捨てならないことを口にした。
「でも、なつちゃんは覚えてないかしら」
 まあ、もう半年も前のことだから、と続ける真美さまは笑みを絶やさず、まるでそれでいいとでも言っているよう。私はあわてて訂正する。私があの日のことを忘れるわけがない。真美さまが忘れたとしても、私が忘れるなんてこと絶対にありえない。
「いいえ! 覚えてます。ちゃんと」
 自分で心境を読み取られないようにとしていたにもかかわらず、全然それが伝わっていないと不満を覚えるなんてわがまま以外の何物でもないのに。
 そう気付いたのは、考えもせずに言ったあと、私のそのちょっと憤慨するような反応に呆気に取られた真美さまが、少しの間きょとんとして、それから小さく苦笑したとき。
「そう。なつちゃんも覚えてるのね」
「あっ。はい! ……すみません」
 何やってるんだろう私は。こんなことなら最初から大喜びしていた方がずっとよかった。
 私は恥ずかしくてたまらなくて、でも入れる穴がそばにはなかったから、ただ肩をすぼめて小さく丸まるようにその場でうつむくしかなかった。
 それからそんな私の頭には追い打ちのように、ふふっと微かな笑い声が二度三度当たって、私はそのたび爆発する恥ずかしさにいたたまれなくなったけど、やっぱりそこから逃げ出すことはできなくて、ただじっと心の中で自分に「バカ」って言い続けた。
 そして、私が自分に20回近くその言葉を投げつけた頃。
「あの日と、逆ね」
 そろそろいいかしら? と、そんな問いかけを含むような真美さまの声に私はようやく顔を上げた。上げなきゃって思ったから。何につながるはじまりかはわからなくても、はじまるということがわかったから。
 あの日と逆なのは、今日の天気もそう。すっきりとした青空は、折り畳み傘なんてかばんに入れている方がばからしいくらい。でも、もちろん真美さまはそんなことを言いたいわけじゃない。
 かばんではなくポケットに入れておいたそれを取り出して尋ねた。
「あの、『相談』って?」
 テーブルの上にその預かっていたリリアンかわら版を広げ、真美さまの言葉を待つ。あの日と逆なのはこの状況。約半年前の季節もちょうど逆のその日は私がかわら版の記事について尋ねたのだ。
 真美さまはそっとその1枚の紙に視線を向ける。そして、「うん」とほんの小さくうなずいて言った。
「なつちゃん。そのかわら版、どうだった?」


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