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 こんなこと言うとせっかくそうしてくれた菜々さんに申し訳ないから内緒だけど、実のところその見えない竹刀にどのくらいの効果があったのかは私にはいまいちよくわからなかった。
 ただ、少なくとも、昼休みの終わりのチャイムが鳴って早足で教室に戻るときの私は「厳しい顔」をしてはいなかっただろうし、あるいはそれとは逆の顔をしていたとさえは思えていたことも、確かな事実だった。
 そこからわかること、それはつまり、それが本物の竹刀であろうとなかろうと、見えようと見えなかろうと、それは私にとってはあまり問題ではなかったということ。だって。
「なっちゃんは真美さまに会えるの嬉しいんでしょ?」
「うん」
「だったらさ、嬉しい顔して行きなよ。難しい顔してたら真美さまに心配されちゃうよ」
「……うん。そうだね」
 そうやって、勝手にこんがらがって身動きのとれなくなっている私に、とてもシンプルに語りかけてくれる。きっと私の心にとって大切だったのは、そんな菜々さんの気持ち自体だったから。
 そして、教室の前まで来て、まだ少しだけ先生が来るまでには時間があることを確認すると菜々さんは言った。何かいいことを思い付いたように、少し笑いを含みながら。
「大丈夫大丈夫。きっと真美さまだって、宇宙の真理を解き明かしてほしいなんて頼んだりしないって」
「え、宇宙の、真理?」
 なに? 何のこと? よくわからない言葉に私が真顔で聞き返すと菜々さんの笑みは苦笑いに変わった。
「あ、いや、それは単なる言葉の綾だけど」
「言葉の、綾……あ」
 やっぱり私はあんまり頭の回転が速くないみたいだ。菜々さんのその「あらら、ちょっと失敗だったかな」って顔を見て、やっとその意味がわかったんだから。
 私も苦笑する。
「……つまり、あんまり難しく考えるなってこと、だね」
 そして、そんな一拍遅れの私の理解に菜々さんは苦笑いをほっとした笑みに変化させると、無言でこくりとうなずいた。
 毎回言われてることなのに、いつもそのとおりだって思っているのに、私はそれを実行できていない。大事なことならもちろん、どうでもいいことまで考えすぎてしまう私のそれは、間違いなく築山なつという人間の特徴なのだけれど、でもそれと、そのことをそのままにしておいていいかどうかはきっと別なのに。
 強くなる。その漠然としていてとても遠い目標にはそういうところから私は変わっていかないといけないのかもしれない。もちろん私にとってはそれ自体がとても難しいことなのだとは思うけど、少なくとも、菜々さんがいないと絡まった思考の糸の中から抜け出せないなんてみっともないから。
 先生の姿が遠くに見えて、それぞれの教室に別れる前に私は「ありがとう」って思いを真っ直ぐにちゃんと言葉にして渡した。そして菜々さんはそれを「ごめん」のときよりさらりと、それでいてきちんと受け取ってくれた。
「じゃあね。なっちゃん」
 冷静で少し無表情なのに何だか満足げで自慢げに感じられる顔。「がんばって」なんて、言葉でも表情でも菜々さんは語りかけてきたわけではないのに、どうしてか私はそんな風に気持ちを後押しされた気がした。
 相手の意図していない風に勝手な意味を受け取るなんてきっとよくないに違いない。だからそんな私の理解を知れば菜々さんは不本意に思うかもしれない。でも、私ははっきり思うのだ。菜々さんはそれで怒ったりしないし、もしかしたら喜んでさえくれるかもしれないって。
 そうだよ、と私は1人うなずく。真美さまに会えるのが嬉しくないわけがない。
 それに、真美さまが私にどんな「相談」があるのかはわからないけれど、真美さまだって築山なつに過剰な期待なんてしてないはずだ。預けられたかわら版も言いつけどおりちゃんと目を通してあるし、考えてみれば焦ることはたぶんない。
(そういえば……)
 マリア祭の前には、白薔薇さまについて「また今度」教えてくれるって言っていた。「相談」も実は単なる言葉の綾で、そのことで真美さまが時間を作ってくれたのかもしれない。
 何をあそこまで深刻になっていたのだろう。私は授業のおかげでより冷静になるとひどく恥ずかしくて、それをこらえていたらテスト直前だというのに授業にはあまり集中できなかった。
 焦りじゃない。でもちょっと落ち着かない。放課後、私はそんな胸の鼓動を抱えながら図書館に向かった。
 トクトク、トクトクと、私には感じられるその鼓動は一般的には「ドキドキ」と表すものかもしれなかった。


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