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ちらりと一度腕時計を見ると、まだ遅刻の不安はまったくない時間だということを確認したのだろうか。真美さまは焦る様子はなく、ゆったりと切り出した。
「実はね。ちょっとなつちゃんにお願いがあって」
「あ、はい」
例えばこの言葉だって、いきなり言われたら私は相当あわてていたかもしれない。だって、真美さまが私に「お願い」なんて、それは私の想像できる思考の枠からかなり外れたところにあることだったから。
でも、これは幸運なことと言うべきだろうか。私はもうさっきの真美さまの「私を待っていた」発言で十分驚き済みだった。理由なく人待ちなんて普通しないものだから、だとすれば、何かしら用件があることの予想くらい浮かれていてもできる。だからそのとき、私は比較的冷静に、改めてどぎまぎしたりせずにその「お願い」を尋ねたのだ。
「何でしょうか?」
「うん。ちょっと今日ね、放課後に時間を作ってほしいのよ」
「放課後、ですか。……大丈夫ですけど、あの、何を?」
「何かしら? お喋り、って言うと少し違うわね。えーと、相談って言うのかしら?」
「相談……ですか」
なぜだろう。今日の真美さまからは突拍子もない言葉が次々と出てくる。今度は疑問符付きとはいえ「相談」。
私より2つ年上で、私なんかよりずっといろんなことを知ってて、賢くて大人の真美さまが私に相談なんて、それもやっぱり私には考えもつかないこと。
私はふと可笑しくなって、思わず、くすっと笑いをこぼした。「私っていつの間にか高名なカウンセラーの先生にでもなってたっけ?」って、そんな風に。
「じゃあ、真美さまは、私に相談したいことがあって、私にそのお願いをするために、朝から私を待っていらしたんですか?」
可笑しさをアピールするために、「私」を少し強調して言ってみた。けれど……。
そんな私とは正反対。真美さまは笑みを浮かべていた表情の成分を変化させ、いぶかしげな色を浮かべた顔、真顔と呼ぶほかない表情で私を見つめ返したのだ。
「そのとおりよ? それ以外の何物でもないんだけど、違う風に聞こえた?」
「え……」
瞬間、面白おかしく考えていた私の心模様は一転、焦りと混乱、そしてその裏にのぞく深刻さに入れ替わった。
それはきっと、微かに首をかしげた真美さまのその姿に、浮かれていた自分を咎められたように感じたから。そんな風に咎めさせるような煩わしい真似をさせてしまったと感じたから。
「い、いいえ。……すみません」
だから私は、改めて確かめるような真美さまのその言葉、私と話したいことがあって、私に時間を作ってほしくて、私を待ち伏せしていたという元々自分が想像できる範囲からすればあり得なくて信じられない説明も、もう無理にでも信じて飲み込むしかなかった。
真美さまが、私なんかに何を聞きたいというのだろう? しかも放課後にわざわざ真美さまが時間を作ってまで。
ごくりとつばを飲み込んで、私はわずかに怯えるような気持ちで向き合った。「相談」の内容はやっぱり私には全然思い付かなくて、だからそれに何の役にも立てないんじゃないかと考えたら怖くて。
「えーと、図書館でいいかしら?」
そんな私の動揺には気付かない振りをしてくれたんだと思う。話を再び進める真美さまは、異論なんて出ようはずもない適切な待ち合わせ場所を指定してから、すっと1枚の紙を差し出した。
「これ、もう読んだ?」
片手に持つにはちょっと大きいB4の用紙が2つに折られたそれは、半分だけでもはっきりと見覚えのあるものだとわかった。だから私はそれに手を伸ばす必要もなく答える。
「はい。……友達から見せてもらって」
「そう。それなら話は早いわ。相談っていうのは、これのことで、なの」
満足のような、どこかそうでないような様子でうなずく真美さまは、自分も改めて確認するようにそれを眺めると、なぜだか照れるように苦笑して「はい」と、もう一度差し出した。
受け取った方がいいのだろう。そう感じた私も今度は手を伸ばし、それを受け取る。
「一応、もう一度目を通しておいて」
そこに向いた私の視線が戻るのを待ってからそう言い残して、真美さまは高等部の校舎に向かっていった。
私はその場で渡されたそれにまた少し目を落として、そこにある抱き合うように寄り添う2人の少女の姿だけ瞳に焼き付けるとかばんにしまった。
リリアンかわら版マリア祭特集号。そこに真美さまが私に求める何かがあるなんて、私は全然思えないまま。