− 105 −
話は多少前後するけれど、どうやら花屋のおばさんが言っていたことは当たりだったらしい。
娘2人が一緒に決めた1つの花束は思いのほか母には好評だった。子どもみたいな満面の笑みで喜ばれて嫌な気分になるわけもない。私たち姉妹にとって、そうして嬉々とはしゃぐ母の顔はプレゼントを贈った側として何より嬉しいことに違いなかった。
そんな姉と私が、実際、世間一般の平均的姉妹から考えて姉妹仲がいいかどうかはわからない。「仲良し姉妹」なんて呼ばれたら、さすがに私も苦笑を通り越してもう笑うしかないけれど、そもそもその平均はどのくらいなのかわからないし、どこか他の姉妹とも比較をしたことがないから。
だけど、例えばそういうちょっと特別な日には、そんな風に見えることが大事なのだろう。姉がそうだとは思えないし、私だって別に演技でそうしようとしていたわけでもないから、私たちに多少なりともそういう素養があったということも否定できないし、否定する必要だってまったくなかった。
そのとき、何だかとても羨ましげに妻の様子を眺めるお父さんを同じタイミングで見て、それから顔を見合わせると「どうしようか?」って、来月のその日もそうするかテレパシーもないのに伝え合った私たちは、少なくともその日、結構「仲良し姉妹」だったような気がする。
6月の第3日曜日、父の日がなんとなく母の日と比べると盛り上がらない感じがするのは私の偏見かもしれないけれど、いずれにしてもマリア祭も母の日も終わって、その日までは行事や記念日と呼べるような日はない。いや、楽しい行事や記念日はないと言うのが正しいだろうか。もう少ししたら、1学期の中間テストという行事はあるから。
そんな中間テストという丘の傾斜が緩やかにきつくなっていく日々の中で、私の通う中等部でもリリアンかわら版によってマリア祭の事件についての情報が広まったのだ。
「白薔薇さま、なんて勇気のある方なのかしら」
「二条乃梨子さまもすごいよね。紅薔薇さまと黄薔薇さまの2人を相手にもひるまないなんて」
「こんなに素晴らしい姉妹、他にいないよ。絶対」
「そうそう。やっぱり白薔薇だよね。白薔薇姉妹」
そのかわら版の影響で周りには少し白薔薇派が増えただろうか? おそらく増えたのだと思う。
「派」なんて言ってももちろんそれは、他の紅や黄と激しい派閥争いをするようなものではないけれど、こんな風にときどき何かニュースがあると勢力図はやっぱり少し変わったりする。そして、「あの子この前は断然紅薔薇って言ってなかったっけ?」なんてはたから見ているのは、意地が悪いとは思うけどちょっと面白くて。
その変動の原因であるマリア祭の事件がどんなものだったかを、かわら版の情報から簡単にまとめるとこんな感じ。
二条乃梨子さまという新入生が学校に数珠を持ってきていることがその場で問題となって問い詰められていたとき、白薔薇さまである藤堂志摩子さまが自分がずっと隠してきた秘密を告白して、その乃梨子さまを救ったのだそうだ。
なぜかと言えば、実はその乃梨子さまも白薔薇さまをかばうために問い詰められても口を割らなかったから。その数珠は白薔薇さまが乃梨子さまに預けていたものだったのだ。互いに自分が罰を受けるから相手は許してほしいと訴えるその姿は、とても美しい姉妹愛の場面だったらしい。
ちなみに、それこそが今年度山百合会がマリア祭のために用意していた出し物で、元々2人を罰しようなんて考えはなかったとのこと。つまり、それはちょっとした「どっきり」だったということだろう。
高等部は中等部と違って持ち物にはさほどうるさくないという話なのだけれど、やっぱりカトリックの学校である以上お数珠はいけなかったのだろうか? それに、そもそも家がお寺であるということは隠さなければならないほどのことなんだろうか?
そんな素朴な疑問はありながらも私も、そうやって思い合う2人なら、クラスメートの話ではもうすっかり事実になってしまっているようにきっとすぐ「か?」も取れるだろうと思って、それが中間テストの直前や最中でないことを密かに願ったりした。
だって、「超」の付く美人で成績も優秀、天から何物与えられているのかわからない白薔薇さまや、高等部からリリアンというだけで才媛と呼ばれるのに、それさえ物足りないような新入生代表という肩書きの二条乃梨子さまは、きっとテストなんて気にならないだろうし、気にもしないだろう。
だけどもし、そんなことがテスト期間の部活動休止中にあったりしたら、3年生でそろそろちゃんと受験生になろうかという姉がまたお母さんを心配させることになってしまうから。