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 私はその人が林浅香さまだということを知っているけれど、浅香さまが私を知っているはずはない。
 その人と私の関係は、たった一度、声のやり取りをしただけ。学校の図書館で本を借りるときも返すときも、私は浅香さまが貸し出しカウンターにいないときにしていたのだから。
 漠然と、確たる理由もなく、だけど私は思っていた。浅香さまに会ってはいけないと。
 会えば何かが起こってしまうような気がしていた。会えば何かが変わってしまう気がした。だから、私は浅香さまに近付いちゃいけなかった。真純さまが「デート」をしてくれるまでは、真純さまに、この春になってから心に重い何かを抱えるようになった理由を話してもらえるまでは、私は「知らないなっちゃん」のままでいよう。そう決めていたから。
 でも、その人がそこいるかもしれないからといって、それを理由に私が学校の図書館に足を運ぶのをやめることはなかった。いや、やめたりなんてできなかった。それは、真純さまとの「デート」が延期になったからといって、私もこの図書館に来るのをやめてはいけないのと一緒。そんなことをしてしまったら、かえって私がその人を意識していると証明するようなものだから。
 だから私は、自分の習慣を崩すことなく、どちらの図書館にもそれまでと特別変わることのない頻度で通い続けた。ただ、浅香さまが貸し出しカウンターにいるときは近付かないようにして。
 それなのに。
(どうして……)
 どうして浅香さまがここにいるの? どうして浅香さまが私を? 私はまったく想像もしていなかった場所でのその人との対面に、ただいくつもの疑問符を抱え、その人の前に立っているしかなかった。
 例えばこの深い色の制服から自分と同じ学校の生徒だとわかったとして、自分が制服を着ていないときに挨拶なんてするだろうか。面識もない。しかも高等部と中等部、通う場所が違うということだって一目でわかる相手に対して。
 いや、違う。そんなの大した問題じゃない。私がこんな気持ちを抱いているのはそんなことが理由じゃない。普通そんなことしないからといって、それが誰もしないことだとは限らない。だから、それは問題の本当の部分じゃないのだ。
 仮に、何かのきっかけで浅香さまが私を知ったのだとしても、それさえ問題じゃない。もっと重要なことは他にある。もっと重大なことがそこに。
(どうして……)
 そう。私が、その人がこれからどんな言葉を口にするのか、どんな風に私に語りかけてくるのか、それに微かな空恐ろしささえ含んだ心理状態になっているのは、そこにあるその人の表情のせい。浅香さまの優しく柔らかなその笑みが、一かけらの悪意もなく私を包み込んでしまいそうだったから。
 向き合って何秒経っただろうか。会ってしまった。言葉を交わしてしまった。何が起こるのだろう。何が起こってしまうのだろう。そんなほんのわずかな時間の中でも私の中では様々な思いが渦巻いていた。ただ、私にはこの状況に対する主導権も、次の言葉に対する優先権も何もなくて……。その人のもたらす何かを私は待つことしかできなかった。
 そして、ふわり。変化は起こる。
 主導権も優先権も、全てを持つその人は歩み出るようにゆっくりと私との距離を詰め、今までのどの瞬間よりも私、築山なつの真正面でこう言ったのだ。
「またね」
 たった一言、ただそれだけ。そして浅香さまは、それ以上の何も口にすることはなく緩やかに私の横を過ぎていった。私がそれに言葉でも表情でも、何かを返す前に。私がそれに言葉でも表情でも、何も返せないと決まっているかのように。
 振り返えることができたとき、そこにはもう浅香さまはいなかった。
 語りかけられたその言葉がわからない。私が「また」浅香さまに会うとして、その場所は学校の図書館なのかそれともこの図書館なのか、あるいはそのどちらでもないどこかなのか。そのときだって、まったく想像もできなかった今日このときのように、いったいいつ訪れるものなのかも。そして、そのときにはどんな深さの言葉がそこに待っているのかも。
 ただ、わかるものがそこにまったくなかったわけじゃない。わかったこともある。だけどそれこそ、私がそれ以外のわからないものに惑わなければならなくなる理由だったに違いない。浅香さまは、「また」私と会うつもりだ。
 挨拶以外の何もなかったとさえ言えるこの出来事に、どれほどの意味があったのかもやっぱりわからない。だけど。
 真純さまにはもちろん、姉にさえこのことは言ってはいけないような気がした。私はそのとき、浅香さまに握らされたのかもしれない。それが何かはわからない。ただ、秘密という名の何かを。


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