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漠然と1年の12個の季節にイメージする色を当てはめてみると、4月は淡いピンクで5月は若草色のような気がする。
もちろん、それは漠然とした私にとってのイメージだからちゃんとした理由なんてないけれど、でも、たぶんその理由をいちいち説明しなくちゃいけないほど、そのイメージは突拍子もないものではないんじゃないだろうか。
満開の桜はきっと日本人ならほとんど誰でも美しいと感じるに違いない。あの1枚1枚の花びらはほとんど白と言ってもいいくらいに薄淡い紅を含んだだけなのに、それが群れを成し、圧倒的なほど世界を柔らかいピンク色に染め上げるその様は、特別な何かをそこに感じさせて。
だけど花は咲けば散るものだから、その桜色の時間はそう長く続いてはくれない。満開のそれから1月も経てばそこは今度は若々しい命のような緑で覆われている。その新緑にあの幻想的な桜色のような特別さを感じる人は多くないだろうけど、でもその鮮やかな緑一色に入れ替わったその樹だって、きれいかどうかを尋ねたらかなり多くの人がうなずいてくれると思う。
問題はその2つの色の中間、葉桜のとき。それは果たしてどのくらいの人が美しいと言ってくれるものなのだろうか?
絵の具でピンクと緑を混ぜたらそこにはあまり素敵な色は生まれない。花と葉が入り交じる桜もピンクの部分、緑の部分、それぞれはきれいだけれど全体としては美しいとはちょっと言えない気がした。
もうカレンダーは新しい月に変わって、辺りの風景にはそんな葉桜も見なくなり薄紅色はすっかり消えてしまっている。
私のそれは特に意味のある思考じゃなくて、ただその淡いピンク色と若草色の季節の境目になんとなくそんなことも思ったというだけ。だから、連なる4と5の月の相性ももしかしたら悪いんじゃないかな、なんて。
だとすれば、本当に勝手なことばかり考えてしまうけれど、そこに連休を作ってゴールデンウィークなんて名付けた昔の人はうまく考えたと思う。ただし世間には「五月病」なんて言葉もあって、それがこのお休みとまったく関係ないとは言えないらしいのだけれど。
そんなゴールデンウィークの、まだ明日も明後日も休みという日の午前中。ようやく私は、開いて視界に置いておくだけで文字を追っていなかった教科書に向き合うことにした。一度椅子から立ち上がって背伸びをする。
「んーー……」
どうでもいいことを1人でだらだらと考えてしまうのが私の癖で、それはたぶん悪い癖ということになるのだろう。
どうせ私はもう中等部も3年目。休みが明けたからといって五月病になんてなったりはしないし、宿題だって早く済ませた方があとが楽だということをわからないほど子どもでもない。ただちょっと、ゆっくりでき過ぎる休みに対してこなさなきゃいけないその宿題が少なかったから集中力が高まらなかっただけ。もちろん宿題なんて多いより少ない方がずっといいのだから、我ながらわがままだとは思うけど。
椅子に掛け直し、数学の計算式を頭に入れて処理しはじめる。
と、やっぱり全然切迫感がないからかその答えが出るよりも早く「あ……」と思った。
そして苦笑する。どうしてか? それはさっきの葉桜の仮定にちょっとした符合を見つけてしまったから。もちろん、元々それは全体が私の印象以外の何物でもない勝手な想像だから、符合より先に問題点の方がずっと多くていくらでもあるのだろうけど、とにもかくにも私は気付いたのだ。姉の折り畳み傘と私の折り畳み傘の色の違いを。姉はピンクで、私は黄緑。その仮定で言えば相性は……。
(……ん、そうかな?)
ただ、その発見に私は、最初の一瞬こそうっかり自分のひらめきを褒めてあげようかなんて思ってしまったけれど、すぐにそれは苦笑を重ねるようなため息に変わったのだ。確かにその傘の色はお互いの好きな色だけど、姉が若草色を嫌いなわけでもないし、私が桜色を嫌いなわけもない。それを開いて並んで歩くときには少し不似合いかもしれないけれど、それだけで語れるほど相性というのは簡単なものじゃないのだから。
その傘のことを考えたからか、私はまた少し勉強をしようという気分が後回しになってしまった。かばんから取り出してなんとなく開いて眺めてみる。そういえば天気に裏切られなかったからか、あの日以来この傘は差していない。そして、当たり前のことだけれど最後に開いたときのように涙を浮かべるようなこともなかった。
窓から差し込む光に透かすと雨の日に見るそれよりずっと、若草色の傘は明るく優しい色をしている。私は思いのほか図太くて、思いをしまった新しい日々にちゃんと溶け込めているのかもしれない。
だからそろそろ真美さまも、妹を作ってくれていいと思う。作ってくれた方がいいと思う。