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 一度、姉への電話を取り次いだことがある。そのときに少し、取り次ぎとは違う会話をしたことがある。姉への年賀状に記してあったメッセージの「妹さん」が私とは限らないから、その人と私との関わりを考えたとき、確かなものは本当にそれだけだった。
 でも、なぜだろう。私はその人の名前を忘れてはいなかったし、姉の口からその人の名が出た瞬間の驚きも、そのとき同時に生まれた納得に徐々にすり替わっていき、いつしか消えてしまっていた。もちろんそこに「予感」と、そんな風に呼んでいいものがあったなんて言えやしない。だけど私は、心の中に間違いなく残していたのだ。もう半年も前になるあのときのことを。
 あのとき、私は電話越しの林浅香さまを真純さまと間違えた。そのとき少し、……冷静さを失くしていたから。
 と、その瞬間その人は息をのんで、それから自分の名前を告げると聞き取れないほどの小さな声を漏らしたのだ。「真純さんじゃない……」と。そして、その声のまとった空気に胸が痛くなるような感覚を覚えた私は浅香さまと約束したのだ。もう間違わないと、強く。
 錯覚を起こしたということも約束を破ったことになるのだろうか?
 いや、仮に浅香さまにそう尋ねたとしても、答えはたぶん「NO」だと思う。錯覚したと言ってもそのまま勘違いをしたわけじゃない。だから私自身だって考えてみれば答えは「NO」でもいいのだと思う。それに私が浅香さまを見つめていたとしても、浅香さまがそんな私に気付いたわけじゃないから。だとすれば、その問い自体あまり意味を持たないものなのかもしれない。
 頭の中にはそんな考えがあった。ただ、私の心はその理屈には必ずしも納得はしてくれていないようだった。
 私にとって、その約束は思いのほか重かったのかもしれない。特に「もう間違わない」と約束したあのとき、言葉にはしなかった「真純さまとは」という部分が。そう、あったとなんて言えないけれど、あったかもしれない予感が本当に存在したのなら、その源は間違いなくそれだったのだろう。
 真純さまと浅香さまは似ている。浅香さまと真純さまは似ている。2人はそれをとてもよくわかっていて、2人はお互いを深く意識し合っている。たぶん、嫌になるほどに。
 似ているというただそれだけで、普通そんな風にまでなったりはしない。だから他にも何か重要な理由があるのだろう。似ているということが、その似ている相手が、あの複雑なため息の源泉となるような何かが。
 私は自分の中で勝手に理解が進んでいくことに少し怖くなった。証拠も何もない。でも思う。きっとそれが私の知らない真純さまに起こっている何かだ。
「なっちゃん?」
 微かに迷うような口調の呼びかけで私を自分1人の思考から引き戻してくれた姉に、私も迷いつつ尋ねた。
「お姉ちゃんは、真純さまとも浅香さまとも友達なんだよね?」
「……ええ、そうよ。2人とも私にとっては大事な友達だわ」
「……じゃあ、真純さまと浅香さまは友達?」
「それは……」
 絶句。
 普通クラスメートや同級生だったら、なんとなく「友達」と言ったって間違いにはならない。それなのに、姉はそこでうなずくことができずに私を見つめて固まってしまった。その、どう言えば「知らないなっちゃん」にわかってもらえるのかと、うろたえ迷う視線こそ、私の勝手な理解にとっては何よりの答えだった。つまり、真純さまと浅香さまはそんなに簡単な関係じゃないということ。
 私は真純さまの事情をまだ知らないし、真純さま本人以外からは聞くつもりもなかった。だから素早く姉には「ごめん」と謝って、それ以上答えを要求することはなかったのだ。そう、これ以上は進めないし、進んじゃいけない。この先は真純さまが「デート」をしてくれる気分になってからだから。
 そんな真純さまと反対に、私は林浅香さまとはほとんど何の関係もない。話をすることもなければ、一緒に歩くこともない。そしてそれはきっとこれからもそうだろう。そう思う。
 でも、そうであるはずなのに、私の中にはどこかそうではないような気配もないとは言えなかった。もしかしたら、いつか私はこの感覚を「予感」と呼ぶのかもしれない。
 そう、こんな風に。新しい学年の最初の1か月、私にとっての一番の関心事は真純さまのことだった。それは自然とそうだったのであって、別にそのことから意識的に目を逸らしたり、目を背けていたわけじゃない。ない、と言っていいと思う。
 カレンダーは進み、4月のページは過去になった。ただ、真美さまにはまだ妹はできていないらしい。


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