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「じゃあ、私は帰るわ。なっちゃんはごゆっくり」
「あ……、はい」
 そこにはもちろん何か事情があったのだろう。一度は反故にできた約束を、どうして延期に改める必要があったのかはわからないけれど、それは真純さまにとってはきっと意味のあることだったのだと思う。ただ、その約束がこの前真純さまが「デート」という言葉を当てはめていたそれのことだと私の頭がちゃんと理解したのは、真純さまの「ごきげんよう」に私も反射的に「ごきげんよう」と返してからのことだったけれど。
 急ぎ足でも早足でもない真純さまの足取りは遠ざかる背中もゆっくりだったから、声を上げさえすれば振り向いてもらうことは簡単だったに違いない。あるいは、今日の私に図書館にゆっくりする用はなかった。追いかければバスも電車もずっと一緒で、それこそどちらかの家の玄関までだって私は真純さまにくっついて行くことができたはずだった。
 でも、そのどちらも私はしなかった。それはただ単純に二の足を踏んだというだけじゃなく、きっと私は「ごゆっくり」しなきゃいけないのだと、そう感じたから。
 自惚れと自意識過剰を差し引いても、好き嫌いで言えば、真純さまは築山なつのことを嫌いじゃなくて好きなんだと思う。真純さまにとってその私といることは苦じゃなく楽で、そして楽しいのだと思う。ただ、それだっていつでもそうであるとは限らない。今日の真純さまには、たとえ私が「知らないなっちゃん」であったとしても一緒にいることは重いのだ。
 声を上げて呼び止めたら、追い付いて隣に並んだら、真純さまはきっとまた複雑な吐息を落とすのだろう。だから、私にはそのどちらもできなかった。
 自分の判断にはっきりとした自信なんてない。本当は私がもっと無邪気にまとわりつける性格だったらそうした方が真純さまの気も紛れたかもしれない。未練のような気持ちがあるからこそ、それを振り切るように私は真純さまの背中がまだ見えるうちに踵を返した。もしもこれが間違っていたら明日からはがんばってまとわりつこうって思いながら。
 いつもと同じリリアン女学園中高等部図書館の少しだけ重みのある扉。それを開けることに緊張を伴ったのはいつ以来だろうか?
 扉にかけた右手に力を入れるその一瞬前にふと思うと、2コマの記憶が脳裏に浮かぶ。1月前のホワイトデーと2月前のバレンタインデー。ただ、その瞬間と今の感覚は合致しないものだということもすぐにわかった。その日、私の心は確かに張りつめていたけれど、この扉の内側に馳せる感覚は緊張ではなく安堵だったのだから。
 もう2年前、最初に1人でこの場所を訪れたときはどうだっただろう? 即座に思い起こせる瞬間よりずっと遠くにあるそのときは、扉を開き、図書館の内側に私を移しても結局最後までよみがえることはなかった。だとしたら私は最初からこの場所には怖れも畏れも感じたことはなかったのかもしれない。
 そして、それを証明するかのように初めて抱いたその心の張りもこの空間にたたずむ空気を吸い込んだ次の瞬間にはもう私の中から消えてしまっていた。だってそこは私にとってはいつもと何も変わらない、心が落ち着き、安らぐ場所だったから。
 真純さまと私は違う。そんな当たり前のことが申し訳なくて少し胸が痛んだ。
『因果なものね。あの人が今年から図書委員だなんて』
 その真純さまにとっての「難しい相手」も、私にとってはそんな難しい表現でしか表せない人には思えない。
 閲覧室の貸し出しカウンターで作業をするその図書委員の1人にも、私は好意を覚えこそすれ、悪意なんて一かけらも覚えていなかった。そう、それは留学した静さまと入れ替わるように今年からその場所に見るようになったその人が、答え合わせをしなくてもおそらく正解であることが確実な人だったとしても。
 バスも電車も1本じゃなく、2本、3本ずれるくらいに時間を置いた方がいいのだろう。それから私はいつもよりずっとゆっくりと書架を巡った。いつか真純さまの話を聞くときが来たら私もその人に真純さまと同じような感情を抱くようになるのだろうかなんて、答えもなければ、答えが仮に出たとしても喜ぶことなんてできないような問いを抱えながら。
 そして、そんな徘徊もそろそろ終えようとしていたときだった。その音に私がはっとしたのは。
「ふぅ……」
 図書館という場所に似つかわしい小さな小さな息の音。それはその新しい図書委員の人の口から漏れた音。
 驚いて改めて視線を向けると、どうして私は今までそう感じなかったのだろう。その人はとてもよく似た印象の人だったのだ。そのまとう空気も漏らした息の複雑さも真純さまと錯覚してしまったくらいに。


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