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「なっちゃんを見習って図書館通いもいいかなって思ったんだけど」
 勝手にそうだと決め付けるわけにはいかないけれど、でもきっと、それは私の勘違いじゃなかったのだと思う。そう漏らした真純さまは自分でも気付いたのだろうか、その表情を小さな苦笑に変化させて続けた。
「因果なものね。あの人が今年から図書委員だなんて」
 そして、図書館の外壁を背に、わずかに空を見上げるような姿勢で「ふっ……」と息をつく。それは単に疲労とか気鬱とかそういう簡単な理由の吐息じゃなくて、もっと何かいろいろな要素を含んだ複雑なため息のように感じられた。だって、そんな風に息をついた真純さまはその吐き出した息のせいでかえって表情に苦味が増しているように見えたから。
 聞いていいのだろうか? それともやっぱり聞いちゃいけないことなのだろうか? 私は迷って、迷った私は結局それを尋ねることにした。
 4月になってからの真純さまに起こっている何か、それを聞くタイミングはきっと今じゃないのだろう。それくらいのことは私にもわかる。だけど、たとえそれが「何か」に関わりのある気配を感じさせるものであっても、その息の音を聞いてしまった私はそれを聞き逃した振りをしない方がいい気がして。
「……あの、真純さま。あの人って?」
「あ、ごめんね。気になるような言い方して。ちょっと、難しい相手がいたのよ」
「……難しい、相手ですか?」
 もっと自然に聞けたらよかったのに。私は自分の口下手さ加減にがっかりした。だって、私の口調は恐る恐るという感じが丸出しで、それは口に出さなくても「気にしてます」って言っているようなものだったから。そして、もちろんそんな私の心境は簡単にわかるものだったのだろう。ふふり、と口許を緩めた真純さまは私のそれよりもずっと軽い口調でさっきと同じ言葉を返した。
「そうなの。難しい相手」
 軽やかに、でも間違いなく「だからこれ以上聞かないでね」という意味を含んだ笑み。だから私はもうそれ以上、何も聞けなくなってしまったのだ。そしてそれは取りも直さず、聞きたいことが何もわからなかったということでもあって、私はやっぱり落ち込むしかなかった。こんなことなら何も聞かない方がよかったって。
 少しでも役に立ちたいのに完全に邪魔者。そんな、勝手に使命感に燃えて、勝手に沈んだ私が黙りこくってしまったから、真純さまは扱いに困ったのかもしれない。さっきよりも深く空を見上げるとまた1つ単純じゃない息をついた。
「ふぅ……」
 そして、それから少しの間そこには言葉はなくて、それから少しあとにそこに言葉を戻したのもやっぱり私じゃなかった。
「なっちゃんがこの前言ってた図書館って、学校の近くの公立図書館のことよね」
「……はい」
「そう。やっぱりそうよね」
「あの、それが何か?」
 それは確かそのことを話したときにもちゃんと言ったはずのこと。姉と違って真純さまは忘れっぽいわけじゃないだろうし、改めてそれを確認する理由は何だったのだろう? 私にはその質問の意図も真純さまの納得も、それが何なのかまったくうかがい知れなくて、心の中で首をかしげるとたぶん表に現れているのは間の抜けた顔だった。
 でも、そんな私の表情も次の瞬間には吹き飛んだと思う。そう、ひどい驚きで。
「ごめん」
(え、え、え……)
 だってそこには、なぜか私なんかに対して頭を下げて謝る真純さまの姿があったのだ。そして、顔を上げた真純さまは私の顔をのぞき込んで、やや弱く尋ねる。
「約束、なかったことにしてくれない?」
「あ、はいっ」
 私は真純さまが何を言っているのか理解する前に思わず、そううなずいていた。それは、仮にちゃんと考えたとしても変わらなかっただろう答え。真純さまがそうしたいというならそれで構わない。それは、思考の過程を踏んでいなかったとしても私の気持ちとして間違いじゃなかった。
 だけど、私のその返答に真純さまはほっとするのではなく、はっとした顔になる。それからひどくあわてて言い直した。
「ごめん、違う。それじゃダメよね。その、少しだけ延期させてくれない?」
 私以上の動揺、その意味は何だったのか。真純さまには申し訳ないけれど、私は理解が追い付かないままやっぱりまた同じようにうなずいていた。
「あ、はい」


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