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 何かが何かはわからないけれど、確かに何かがあった……いや、何かがあるという事実を知った上で、今までと変わらずにいるというのは結構難しいことなんじゃないかと思う。
 できないことを安請け合いしちゃいけない。だから私はそのときちゃんと考えて、だから私は少し答えるのに時間がかかって、だから私は最終的にはしっかりとうなずいたのだ。真純さまの友達である姉が私にできることがあると言うのならそれを信じてみようと思う。それが姉自身にはできないことなのだとしたら、なおのことだ。
「そのときが来たら話を聞いてあげて。真純さんから直接ね」
「うん」
 たぶんそれが一番なのだろう。真純さまに起こっていることが何かはわからないけど、それが大事なことであるなら大事なことであるほどやっぱり又聞きするべきじゃない。もしも急を要することならそれこそ姉だって「そのときが来たら」なんて言うはずないのだから。
 そのときっていつだろう? 私はちゃんとそのときをわかるのだろうか? それに、それは私が聞いてもいいことなのだろうか?
 疑問はいっぱいだった。だけど私は自分に言い聞かせた。とにかく、わからない以上は考えないこと。いつもいろいろ考えてしまう私だから、放っておいたらいつの間にか勝手に変なことを考えてしまうかもしれない。それじゃ真純さまに対していつもと同じではいられないから。そうじゃなくても、考え事をしてる顔にはなってしまうかもしれないわけだし。
 姉の部屋から自分の部屋に戻り、日記をつけて眠りについた。もちろん真純さまの何もそこに記したりはしなかった。
 そして翌日。やっぱり朝の駅のホームで私はその人と顔を合わせる。
「ごきげんよう。真純さま」
「ああ、なっちゃん。ごきげんよう」
 3日続けばそれは当たり前とまではいかなくとも、珍しいことではもうなくなるのかもしれない。4日目に初めて私から挨拶をしたそのとき、4日目にして初めて真純さまは普通の顔で笑ったような気がした。
 変わらずにいることと心配をしないということはイコールではないのだと思う。だからそのとき、ほっとした気持ちを私がうっかり表情に出してしまっていたかもしれないことには目をつむってもらえるとありがたかった。……誰につむってもらえばいいのかはよくわからないけど。
 最近あまり本を読んでないらしい真純さまに、最近私が読んでよかった本を薦めた。学校の図書館じゃなく、あの新しい図書館で借りた本だ。「学校の図書館じゃないんですけど、今度一緒に行きましょうか?」と尋ねたら、「デート? いいわね」なんて返ってきて私は少し返答に窮したけれど、高等部と分かれるそのときまでにはちゃんと「デート」の約束を取り付けて、真純さまと別れた。
 出会う場所が少し前になっただけ。それ以外はかなり普通の朝の光景だったんじゃないかな? 中等部の昇降口で私は1つ息をつき、だけどそんな風に息をついている時点で普通じゃないということに気付いて苦笑する。
 そんなときだ。
「ねえねえ、なっちゃん」
 1人のクラスメートに声をかけられた。朝でも昼でも夜でも変わらない「ごきげんよう」という挨拶もなく、声のトーンがやや弾んでいる気がする。私は自分の勘とか直感が優れている自信は全然なかったけれど、このときは間違いなく直感した。何だかよくない感じがするって。
「なっちゃんが今、一緒に登校してたあの人」
「待って!」
 こんな風に人の話を遮った経験なんて過去にあっただろうか? 私は自分でも驚くくらいに素早く口が動いて、その子の言葉を途切れさせることに成功した。そんな私の声に負けたその子の「ってさ」がくっつけていた「あの人」が真純さまのことだとはっきりとわかったのは、2人の間にわずかな沈黙が入り込んでくれたそのとき。
「え……、うん。なに?」
 優先権がクラスメートから私に移って、改めて私は見切り発車で割り込ませた自分の言葉をよかったと思った。落ち着いてゆっくり告げる。
「それって、私が真純さまと親しいってわかってて言おうとしてる?」
「え……、えーと……」
 そして少し考えて、その問いにクラスメートは「ごめん。何でもない」と、真純さまのことらしいその話題を諦めた。少し申し訳なさそうに私の顔色をうかがうその様子に、私も申し訳なく思わないわけはなくて。
「うん、私もごめんね」
 だって、私はその子のことが嫌いなわけでも、まして責めたりしたわけでもないのだ。


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