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 その年の桜は3月には咲くことはなく、4月になってからほころんで、花開いた。
 3月と4月という圧倒的で絶対的な境を越えるとそこには、それまでとはまったく違う原理でできた世界が広がっている。などということはもちろんない。当たり前のことだ。桜だって4月になって唐突にそこに生えたわけでも、蕾むという過程を無視して唐突に咲いたわけでもないのだから。
 ただ、それまでとは違う景色を瞳に映すようになるということを、世界が変わったと言うこともできるのだと思う。世界は私がいなくても回るだろうけど、私は私で世界を見ているのだ。だからそれは、例えば通う教室が変わるといったほんの些細なことでも、確かに私の世界は変わったと言っていい。
 隣のクラスだった菜々さんは、私の希望とは裏腹に学年が変わってもまた隣のクラスだった。教室の配置では菜々さんと私の左右が入れ替わったけれど、やっぱりまた間には壁がある。確認するようにのぞいてみた図書館には静さまの姿はやっぱりなくて、新しい図書委員の人がその席を埋めていた。
 私のそれまで過ごしてきた世界とのいくつもの些細な違いが新しい世界にはあって、だけどそんな風に変わったところを探している以上は、つまり世界の大部分は変わってなんていないということでもある。だって、もしも世界が大幅に変わっていたなら、そのときは間違いなく、私は変わっていないところの方を探していたはずだから。
 桜が散って花吹雪が舞う、その光景を冬には考えられなかった光景だと思っても、それは単に季節の移ろいを表しているだけ。いつまでも桜色の季節が続くわけじゃない。
 そんな、季節の変化の中で一時はそれ以外の花の存在を忘れさせるほどに咲き誇った桜もほとんど全てが散ってしまった頃、私はまた1つそれまでとは違う風景に出会った。それはある日の朝、いつもの駅でいつものように改札を抜けた先のホームでのことだ。
「……、あの、真純さま?」
「ああ、なっちゃん。ごきげんよう」
「……はい。ごきげんよう」
 こんなこと今まであっただろうか? あったとしたらそれはどれだけ遠い出来事だろうか?
 私はホームで電車待ちをしているその人が私がいつも乗っている車両の場所に立っているのを見つけ少し驚いて、たぶんわずかに困惑や緊張さえしていた。家が近所なら当然使う駅は一緒。実際真純さまと知り合ってからの2年間のうちにも帰りが一緒になったことは何度もあった。でも、朝一緒になったことなんて……そう、ちょうど2年前、姉が足を怪我したことをきっかけに真純さまと知り合った頃以来一度もなかったことだ。
「あの……、珍しいですね」
「え……何が?」
「その……、ここでお会いするのが、です」
 私がそう答えたとき、ちょうど電車が滑り込んできて、その緩やかな音と風に話は途切れた。電車がのろのろとなり、それから完全に進むのをやめてドアを開くそのわずかな間に真純さまから返ってくる。
「……ええ、そうね」
 だけど、誰一人降りる人のいなかったドアから真純さまはさっと車内に入ってしまって、私もまずそれに倣うのが先だったから、私はそれにもう一度何かを返すことはできずにそのまま会話は終わってしまった。
 車内に自分を置く空間を確保して私は思う。やっぱりはっきり聞くべきだったのだろうか? 「どうしてここにいるんですか?」と。だけど、それじゃまるでそこにいてはいけないと言っているみたいだ。真純さまがどの車両に乗ろうとそれは真純さまの自由。誰にも文句を言われる筋合いなんてない。
 それに……、と私は改めてその疑問を胸の中に抑えた。それに真純さまはきっと私のこの違和感をわかってる。それでいて、いや、それなのに話には乗ってこないのだ。ということはたぶん……。
(……話したいことじゃない)
 それが私の勝手な思い込みという可能性はもちろんあった。真純さまは単にたまには車両を変えてみようと思っただったのかもしれない。でも、私にはそれがきっと自分の勘違いじゃないという自信に近い感覚があった。
 それこそ勘違いで言っていいことじゃないから口には出さなかったけれど、改めて確かめるようにうかがった真純さまはやっぱり何か重い空気に包まれていた。少し痩せたような気もする。


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