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 たぶん、浮かんだ涙もこぼさなければ、それは泣いたうちには入らないと思う。だから私はその日泣いてはいない。それに、そもそも泣くということをする理由なんて私にはなかったのだ。
 お姉さまの実の妹。その場所に私がちゃんと自分の思いを合わせることができれば、私はきっと今までと同じように、あるいは今までよりももう少しくらい真美さまに近付くことだってできるのだろう。それは哀しいことじゃなくて、……幸せなこと。
 この思いはきっと恋という気持ちに似ているのだろう。けど、恋人と姉妹は違う。姉にはお姉さまがいて妹もいるけれど、それは両方が成り立っている。だからこの思いはそれとは絶対的に違って、でも仮にこれがその恋だったとしても、この今という状況を失恋だなんて呼ばないでいいのだと思う。
 大事な大事な思い、私はそれをずっと大切に心に持っていていい。ただ私を振り回して、真美さまにまで迷惑をかけるような部分はもう少し奥にしまっておくだけ。きっと、真美さまだってそれなら許してくれるはずで、喜んでくれるはずだ。もしもそうでないのなら、今日、私には最良の答えが返ってきていたはずなのだから。
 来年のバレンタインには妹のいる真美さまだから、禁止されているという事実を踏み越えてまでチョコを渡すのはやめよう。でもチョコレートは贈る。そう、私はそれを届ける確かな方法を知っているから。同じ姉を持つという、たった2人だけのつながりが真美さまと私にはあるから。
 来年までに私の真美さまへの思いが目減りすることなんて絶対ない。来年までに私が真美さま以外の誰かに思いを移すことも絶対ない。だから鬼が笑ってしまうくらい遠い日のことでも今から決められる。来年までに真美さまが姉に愛想をつかすことだって、私の思いよりは絶対でなくとも、絶対ないと信じていい。
 1つずつ。1かけらずつ。
 私はその真美さまらしい優しくて甘い答えを、夕食よりもずっと時間をかけてお腹に収めていった。ぱくぱくと食べるにはそれは重過ぎて、だけど、日記を書くことを放り出してでもこの日のうちにそれを終えなければならない気がした。黙々と、ただ口の中でほどけさせたあと、意識的に飲み込んでいく。それを繰り返す。
 私はいつから気付いていただろう? 最初の1かけらを含んだときにもう気付いていたのかもしれない。それは儀式だった。そしてそれは最後の儀式だった。最後にできると思える儀式だった。
 思いをしまうという、私自身が決めたそれをやりきることができたなら、そこにまだ半月という時間が残っていたとしても、もう「4月までに」なんて言葉にも「4月までは」なんて言葉にも心を占められることはなくなる。暦が冬からちゃんと季節を移しているように、この1番最初の季節に咲く花のことを考えられる。
 1つずつ。1かけらずつ。
 手に取っては含み、ほどかしては飲み込む。飾り気のないシンプルでスタンダードなクッキーは1つたりとも変わった味なんてしなくて、1つくらい変なのがあってもよかったなんて思うくらいに全部美味しかった。優しくて、なぜか温かくて。……そこに真美さまが感じられて。
 押し上げて、瞳が支えきれなくなったわずかな涙も頬を伝う前に拭った。泣けば次の日は清々しくなれるなんて、そんな勝手な迷信に頼りたくなかった。私は泣かなくても明日はちゃんと笑ってる。
 最後の1つ。それでも私は決してそれに臆することなく同じ動作を繰り返した。クッキーをつまみ、まぶたを拭き取るまで。そして、最後の儀式が終わった。
 なぜなのかはわからない。最後くらいはどうしようもないくらいにあふれてくると思ったのに、あふれてしまっても仕方ないと思っていたのに、私は最後まで涙に押し切られることはなかった。だから、泣かなかったということにできた。日記に淡々と、真美さまからクッキーのお返しがあったこととそれが美味しかったことを記して私はその日を終えることにする。
 昨日の夜に不眠になることがなかったように、この夜も不眠になることはないだろう。そして明日、その重かったものを全部収めたことでお腹を壊しているということだってきっと。
 私は「ごちそうさまでした」でも「ありがとうございました」でも、「ごきげんよう」でも「さようなら」でもなく、それしかない言葉をつぶやいて目を閉じた。
「おやすみなさい」
 私の思い。


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