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 思いが薄れる、なんてことない。だから私はあの人のことだったらそれこそいつまでだって考えていられただろうし、だから私はその人のことをなるべく考えるわけにはいかなかった。
 4月までに。残された時間の砂時計はそんなにあわてなくてもいいのにと言いたくなるほどしっかりとこぼれ落ちていくのに、それと同じ速さで落ちていかなければならないはずのもう1つの砂時計は、ひどい目詰まりを起こしたのか全然流れ落ちていかない。それはまるで「4月までに」を「4月までは」と勝手に読み替えているように。
 捨てるより忘れるより、しまうはやっぱり難しいのだろう。だけど私は新しい日々に進んでいかなきゃいけなくて、だから私は、その全ての願いが叶った日のあとに見つけた新しいものを頼りにして、それを利用することでどうにか前に進もうとしていた。
 どうして2月だけ他の月に比べて2日も3日も短いのだろう? そんな疑問が湧いたのはその1年を区切る12個の季節の中でも特別な1つが終わり、暦が残された最後の月になったある日の朝のこと。覚えていたら調べてみよう。放課後あの「新しい」公立図書館へ足を運ぼうと考えていた私はかばんにも借りた本を入れて登校した。
 本を読むのにはやっぱりちょっと時間はかかるから、学校帰りにそこに寄ったのはまだ1度。それが習慣ということになるのは2度目の今日からなのか、あるいはもっと回数を重ねてからなのか。いずれにしてもその1週間以上2週間未満くらいの周期で繰り返されるだろう新しい習慣を思うとほんの少し、心にも新しい風が吹き込んでくるような気がしていた。それは目詰まりに風穴が開くほどでなくとも快く。
 そして放課後。昼休みのうちに立ち寄り許可をもらっていた私は、少しだけ早足で長い銀杏並木を下っていった。もちろんスカートのプリーツは乱さず、セーラーカラーも翻したりはせずに。
 その図書館に学校帰りに寄るのは効率的な反面、閉館時間を考えるとやや時間が限られるところが難点だ。リリアン女学園のいつもの図書館とはその蔵書もそこにいる人たちも全くと言っていいほど違うその場所はまだ私にとっては全然慣れとは程遠い場所で、例えば私は書架の間をうろつくだけでもなるべくしていたかったから。
 寄り道をしない高等部、中等部の生徒でごった返すバス停を尻目に、私はさくさくと迷いない足取りで歩む。そして、「校門を出たからもうちょっとだけスピードを上げても平気かな?」なんて考えも頭に浮かんでいだそのときだ。
「なっちゃんっ?」
 どこか少し遠くから誰かに呼ばれた。
「……え」
 急いでいたけれど、さすがに誰かに呼ばれて立ち止まらないわけにはいかない。私は足を止めると振り返って周りを見回す。まだその誰かの姿は発見できない。誰だろう? きょろきょろ。
 すると、ゆっくりと近付きながら、顔の横の辺りで小さく手を振る人が目に入った。私も少し戻るように歩み寄る。驚きはない。でもちょっと緊張しながら。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。久しぶりね、なっちゃん」
「あ、はい。ご無沙汰してます」
 その人の言うとおり、それは確かに久しぶりだった。挨拶を交わして私はいつ以来だろうと思いを巡らす。年が改まってからは会っていない。たぐり寄せる記憶は思いのほか遠くにあるらしいようだった。
「どうしたの? お家、そっちじゃないでしょ」
 不思議そうに、さほど心配そうにではなく私の顔をのぞき込むその人に、私もありのままを返す。
「今日はちょっと、近くにある図書館に寄ってから帰るんです」
 するとその人は、あまり心配そうではなかった顔とは不釣合いなくらいに今度は安心した顔で笑った。
「なんだ。そうだったの」
 ただその人は、そのあと思いもかけない言葉を続けたのだ。「ねえ、なっちゃん。私も一緒に行っちゃダメ?」と。
「え……?」
 どうしてそんなことになるのかわからなかった。自分で言うのもなんだけど、その場所は普通の10代の女の子にとって楽しいところとはあまり思えない。友達を学校帰りに誘っても、あからさまに嫌がられることはないにしてもきっと遠慮はされるはず。
 わからない。だけど、断る理由もない。だから私は困惑しながら「いえ、大丈夫ですけど……」と答えた。するとまたその表情は緩まる。
「ありがとう」
 その人、姉のお姉さまの微笑みは一番最初に会ったときから変わらない気がした。けれどこのとき、私にはどこかそれがこれまでで一番柔らかいような、そんな気もしていた。


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