− 66 −

 雨漏りがしているわけでもないのに部屋の中で傘を差すなんて、普通に考えたらやっぱりおかしいことだろう。
 だから私だって、もちろんそれは意味を持ってやっていることだったのだ。ただ仮に、その姿を家族に見られたときにその意味は説明するわけにはいかないというだけのこと。口に出せない理由というのはそういう意味では役に立たないものかもしれないなかった。
 それは一言で言えば儀式だった。もちろん雨乞いなんかをしてるわけじゃない。それは、「捨てる」ではなく、「忘れる」わけでもたぶんない。きっと「しまう」ための儀式。心にある思いに区切りをつけるための大切なステップの1つだった。
「ありがとね。とっても助かったわ」
 それが空になった日の2日後、淡い黄緑の折りたたみ傘は姉を経由せずに私の元に戻ってきた。
 受け取ったのは朝。真美さまは登校する私を待ってそれを渡してくれたのだ。私は、あの日別れたあとにもそれが役に立ってくれたのかちゃんと確かめることはしなかったけれど、真美さまがそう言って微笑んでくれたからきっとただ荷物を増やしただけじゃなかったのだと勝手に確信した。
 借りた傘を返す。真美さまの目的は的確で、「じゃあ、またね」まではあっという間だったけど、もちろん私がその時間、幸せだったことは言うまでもないことだった。
 言葉は重ねれば重ねるだけありふれて陳腐になっていくのだろうか? そうかもしれない。だけど、私にとってそれはやっぱり「幸せ」と言うのが1番で、熱を帯びる胸はそこにある思いがわずかにも陳腐になんてなっていないことを、ただはっきりと私に知らしめていた。
 家に帰ったあと、改めてかばんから出して手に取ったそれは、私がするときと同じかそれ以上に几帳面できれいにたたまれていて、私はぼんやりと思ったのだ。次にこれを開くときはいつなんだろう? と。そして苦笑もせずに息をつく。
「……ふぅ」
 だって私は、驚くほど簡単にそのときの自分を想像できてしまったのだ。このくらいなら傘は差さなくても平気かもしれないなんて、雨脚と傘を交互に見て逡巡するそんな私を。そこにあるのは残り香でも、まして温もりでもないただの折り目だけ。そしてそれさえ真美さまの癖なんてわかるようなものじゃないというのに。
 そんな極めて高確率で的中するだろうひどくさもしい未来には私自身だって呆れて閉口するしかなかった。だからあえてそれを解いて開かせたのだ。
 これからはもう雪も降らないだろうから、折りたたみ傘が必要な場面なんてにわか雨のときくらい。にわか雨はにわかに降るもので、それがいつあるかなんてわからないから。4月までに私が決断せざるを得ないほどのにわか雨なんて、そんな機会はきっと訪れないと思ったから。
 4月までに。私にとってそのとき意識していたことはただその一点だったとさえ言えるような気がした。
 12月から1月に変わってもそこにそれほどの差はなかった。だけど、この先にある3月と4月の境にはそんなものとは比べられない圧倒的で、絶対的な差がある。真美さまは高等部2年生になり、私は中等部3年生になる。もしも飛び級の制度があったなら、どんな努力も惜しまずに高等部に上がってみせるのに……。
 くっと唇に力を入れて私は改めて現実を噛みしめた。……そう、私は中等部の3年生にしかなれないのだ。
 4月になれば真美さまは妹を作る。仮にそれが実際は5月にずれ込むものだとしても、私はそれがいつであろうとそれまでには自分の心にちゃんとそれを迎える準備をさせていなきゃいけない。だとしたら最も早くそれが訪れるときを想定する以外にないのだ。だから「4月までに」。
 そのステップの1つとして部屋の中に咲かせた花は、そこが本来の咲く場所じゃないからかどこか落ち着きなく頼りなげだった。
 瞳に思いがこみ上げたのはその黄緑色の空があんまりきれいだったせい。そして、それを防ぐことに少し失敗したのは潤んだ瞳が余計にそれを淡くさせたせい。
(……でも)
 これで明日はまた心も晴れる。私はそんな苦しい理由付けでその涙を肯定し、あえて止めようとはしなかった。少なくとも傘に隠れていれば不意にドアを開けられても拭う時間くらい稼げるから。だけど、そんな風に思うとかえって涙は湧き上がってこなくて、私は諦めると傘を閉じたのだ。
 4月までにあと何度こんな儀式をすることになるのだろう? いつもと同じようにたたんだ傘から真美さまの折り目が消えただなんて、もちろん私は思っていなかった。そんな簡単なことじゃないのだ。


前のページへ / ページ一覧へ / 次のページへ