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 新しい日がはじまって、沈んでいた陽が昇り、私は夢から戻ってきた。目覚ましの25分前、いつも目覚ましよりほんの少し早く起きる私はその日、その「いつも」よりももう少し早起きだった。
 起き上がりベッドから出て、最初にしたことは背伸び、その次は小さくあくびで、その次は部屋の窓を開けること。大きく開けて取り込んだ空気は寝起きにはひどく冷たくて、そしてひどく爽やかだった。空は晴れ。見る限り昨日の雪は残っていない。やっぱり積もることはなかったのだ。
 でも……。
 私は思う。その空気の冷ややかさは昨日降ったあの雪の温度に近いと。昨日と今日は別の日で、だけど確かにつながっていると信じられるくらいに近いものだと。
(……あ、宿題)
 それも昨日と今日がつながっていることを示すものに数えていいのだろうか。気付いた私は顔だけ洗うと、ちゃんと昨日先送りしたまま残っている宿題に手を付けた。教科書とノートを広げ、机に向かう。
 早起きは三文の徳。時間は昨日の予想よりももっと十分あって、それに輪をかけるように私は順調にそれを片付けたから、あんまり早く起きてスイッチを切り忘れた目覚ましが鳴るそのときにはもう教科書とノートをかばんにしまえるくらいだった。
 ジリリリリ……
 いつもと変わらず元気な目覚ましを手に取って、ぽんっとほんの軽く叩くようにスイッチを切るとその音は最後にリンッと跳ねた。
 なんでだろう? 私は宿題をしているときにも感じていた戸惑いがその音と一緒に少し跳ねた気がした。どうしてなのかわからない。ただ、私の心は自分でも驚くほどに穏やかで、自分でも持て余すほどに清々しく澄んでいたのだ。
「おはようございます」
 制服に着替え、朝食の仕度をする母に挨拶をすると「あら、なっちゃん。どうしたの? いいことでもあった?」なんて見透かされてしまったから、私はそれを勘違いということにはできなくなった。どうやら私ははた目にもわかるくらい快い状態らしい。……理由はよくわからないけど。
 姉を起こし、父を起こし、姉を起こし、姉を起こし。朝食にはちゃんと家族みなが揃った。当たり前だけど、それはとても大事なことだと感じる。当たり前のことが当たり前に流せないのは私が当たり前じゃないから? うん、そうかもしれない。
 そしてその朝食後、いつもならもう仕度の終わっている私は歯磨きを済ませたら1人家を出るところだけど、その日は待つことにしたのだ。
「一緒に行こ。お姉ちゃん」
 そう告げると私はそれ以上姉を急かすこともなく、玄関の外晴れ渡る空を見ていた。その透明な空にさえ私の心は負けないような気がする。その澄み方も、その潔さも。
「おまたせ、なっちゃん」
 だから私は、そうして姉と歩き出して数歩、口ごもることもなくはっきりと言うことができたのだ。
「4月になったら、真美さま、妹を作るよね」
「なっちゃん……」
 姉は、あんまり私があっさりとそんなことを言ったから驚いて「そ、そんなことないわよ。だって……」なんて、そのあとが続かないようなことを口走った。だけど案の定、姉はその「だって」のあとに私の名前を出すことはできなかったのだ。真美さまの妹は真美さまが決めること、お姉さまとはいえ姉にそれに口出しをする権利はない。そして「可能性」なんて残酷な言葉を私に返すこと、姉にはできないから。
 私は姉を困らせたいわけじゃなかった。むしろ私はこのことでは迷惑と気苦労をかけている姉を安心させたかった。きっと、これほどに静かな心はそのために使うべきものに違いないのだと、そう確信して私は言った。
「私、仲良くなれるかな?」
 それを人は「諦め」と呼ぶのだろうか? 呼ぶのかもしれない。私はそれならそれでもいいと思った。少なくとも私は私なりの方法で自分の思いを届けたのだ。だから私はそうは呼ばない。
「なっちゃんを嫌うような子、真美が選ぶわけないわ!」
 姉はとても無責任に、とても力強く保証してくれる。私はあんまりそれが姉バカだったからつい笑ってしまった。
 だからそのとき、ほんの一しずく頬を伝いそうになったのは姉のせい。私は気付かれないように笑顔でそれを拭った。本当は私もわかっているのだ。できればわからない振りをしていたかっただけ。私の心の澄んでる理由、それは昨日の涙のおかげだから。
「そうだといいな」
 つぶやいて、それから見上げた空は誰に聞いても終わりよりはじまりにふさわしいと言うに違いない。宿題も涙も昨日の延長戦はもう終わった。もうこれまでじゃない。だからきっと、思いも少しずつその未来を受け入れるように新しくなっていけると私は思った。
 その未来にだって真美さまと私には変わらないものがある。築山三奈子の妹。それは姉が愛想をつかされない限りずっと、私たちをつなぐ絆になってくれるから。


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