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 大切なことがあった日こそ、できるだけ細かにそれを書き留めなきゃいけないのに。記した言葉は私の心の大きさには全然届かない。夕食とお風呂を終え、宿題は後回しにした私は、いつもよりずっと長く時間をかけて日記を書いたあと、そう思った。
 もしも私が実力のある小説家だったらこの心だってもっと正確に、もっと克明に書き留めることができるのかもしれない。だけど、仮にそうであったとしても日記帳の1日の割り当て、限られた2月14日のスペースでそれを実行するなんて不可能なことに違いない。
 私のそれは不満というわけじゃなかった。じゃあ、満足かというとそれもちょっと違う。それはどこか安心に似た感触を得た気持ちだったのだと思う。
 記した言葉は全然足りない。でも、いつかこの日記を読み返す日が来たときにも、私はきっとこの気持ちを必ず思い出せるだろう。私は誰かに同じ気持ちを感じてほしいわけじゃない。私が私の気持ちを大切にしたいだけ。だから、私が思い出せるならきっとそれで十分なはずだから。
 日記のページを閉じると1日をもう終わらせなきゃいけない気がして、少ししか出ていなかった宿題は結局その日はやらなかった。朝いつもの時間に起きれば授業までに十分こなせる。それに、もしも間に合わなくて怒られてもそれは今日を思い出す出来事が1つ増えるだけ。そして何より、明日はかばんにチョコはないから。
「おやすみなさい」
 そう告げて部屋の灯りを消しベッドに入った。眠りに落ちたあとどんな夢を見ても、今日この日の出来事より素晴らしい何かには出会えないことはわかりきっていた。朝から出来事を再生していったら、私はどこで意識を眠りの世界に譲るのだろう。どの瞬間でもいい。姉が、菜々さんが、そして真美さまがくれたどの瞬間でも構わない。そんな風に思えることはなんて幸せなことだろう。
(……ああ……)
 ゆっくりと、閉じた瞳が必然のように熱くなっていくのを私は感じた。
 きっとそれは胸の奥、ずっとこのときを待っていてくれたのだろう。私はそんな自分の中にあったものにさえ感謝した。今なら誰にも見られることはない。誰にも遠慮しなくていい。そして、私を安心させるようにまぶたからほんのわずか、涙は染み出した。
 私は自分に酔っているのだろうか。チョコを渡すだけで満足したり、同じ傘の下なのに触れることはないようにしたり、……妹になれることはきっとないと思ったり。
 もしかしたらそうなのかもしれない。だけど、だとしたら心にあふれる思いは、この涙は偽りだというのだろうか。本当の思いはどこかまだ胸の中にあるというのだろうか。違う。そんなわけない。この涙は絶対に真実で、この涙が全てだ。
 幸せだった。幸せで幸せで幸せだった。私はずっと、泣きたいほど幸せだったのだ。
 哀しくならないように、悔しくならないように、寂しくならないように、この涙にそんな簡単な名前が付かないように私は心に言い聞かせた。だってこれは、嬉しさや楽しさや誇らしさや、他にももっともっとたくさんの感情が全部混ざり合ったものだから。
 しあわせ。いとしい。ありがとう。ごめんなさい。
 すき。
 やっぱりこの涙に名前なんて付けられない。私にできることは無理にそれを止めようとなんてしないことくらいだった。控えめに、決して私を困らせるような湧き上がり方をしてくれないそれを守るようにしっかりと受け止めた。
 特別な、大切な1日の最後のその出来事はもちろん日記には記していない。
 だけど……、と。私は思った。少し先かずっと先か、未来に日記を読み返す日が来るかどうかはわからない。だけど、いつかそれを読み返すときが来たら、私はそれがいつであっても2月14日と2月15日の間の空白にこの涙もきっと思い出せる、と。
 ただ一度も涙を拭うことはせず、そしていつか私は意識を夢に預けた。


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