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「ありがとう。お姉ちゃん」
 帰り着いた家の玄関の前、沈黙を解いたのは私だった。傘をたたむ姉の背中にそう投げかけて。
 だけど、私は口にした瞬間に思った。今、言うべき言葉の正解は「ごめん」の方だったんじゃないかって。だって私は、そのあとさっき姉が言おうとした何かを尋ねる気はなかったから。
「いいわよ。お礼なんて」
 当たり前のことでしょ、と、あっさりと返すと姉は玄関脇の傘立てにそのピンクの折りたたみ傘を立たせ、身体に雪はついてなかったのにコートから雪を払う仕草をしながら言った。
「天気予報で言っていたより降ったかしら」
「うん。たぶん」
 こんなに降るとは言っていなかったと思う。私も付き合って一応自分を見回して答えた。でも、やっぱり雪はついていないし、ほとんど濡れてもいなかった。姉の傘のおかげ。だから、もちろん「ありがとう」も間違いではなかったのだ。ただ、「ごめん」の方が先に言うべき言葉だったような気がしただけ。
「傘、持っていって正解だったわね」
 そう言って姉は玄関のドアに手をかける。傘を持っていって正解だったのが誰なのかわからないままにして。いや、それは違うかもしれない。だって私はそれが誰のことを言っているのか正しく受け止めた自信があった。姉が傘を持っていってよかったことは雪を浴びながら帰らなくて済んだというだけでしかない。それにひきかえ私は……。
「……うん。そうだね」
 私は噛みしめるようにうなずいた。わからない振りなんてできるわけなくて、まして、また黙り込むなんて卑怯なこと絶対したくなくて、だからゆっくりと、でも確かにうなずいたのだ。その幸せ以外の何もなかった瞬間を改めて噛みしめるように。
 私の答えを確認してからドアを開ける。その前にほんの軽くうなずいたのはその答えに満足してくれたということなのだろうか。そうであってほしい。私はただそう思った。
「ただいまー」
「ただいま」
 2人揃って「行ってきます」も「ただいま」も口にした日はいつ以来だろう?
 お母さんが台所の方から返した「おかえりー」の声を聞きながら、その最近では珍しくなってしまっていたことにふと気付くとまた少し心が痛んだ。今日だって、私が無理矢理自分の都合を押し付けなければ帰りが一緒になることはなかったのだ。私は姉を利用して、私は姉の邪魔をして。
 4月になれば真美さまは妹を作る。だからその前にけじめをつけようとしたのが今日だった。だからこそ押し通したわがままだった。そして、私がその決意をしていたからこそ、マリア様だってその大きな大きな願いまで叶えてくれたのだ。今日この日は幸せと呼ぶ以外に表せない日。きっといつまでも忘れることのない大切な大切な宝物。でも……。
「……ごめん。お姉ちゃん」
 靴を脱ぐ途中の姉に、私は「ありがとう」よりずっと真剣にそう語りかけた。きれいごとかもしれない。だけど、私が私が幸せになるために誰かの幸せを盗みたくなんてなかったのだ。それがこうしてはっきりと顔を合わせる人であればなおさら。
 姉は手を止めて私の顔をのぞき込む。
「どうして謝るの?」
「どうしてって、だって私……」
 わがまま言って迷惑かけて、その幸せさえかすめ取ってしまった。それははっきり口にしていいことなのだろうか。私は言いよどむ。すると姉はそんな私と正反対に強く断言する。
「なっちゃんは何も悪いことなんてしてないわ」
 まるで叱るような口調。だから謝る必要はないだなんて、私はそんなことあるわけないと強く思った。だって私は姉に迷惑をかけた以外にだって禁止のチョコを持って行ってた。悪いことは間違いなくしている。だからそんなことあるわけないのに……。
「よかったじゃない。なっちゃん」
「……」
「よかったんでしょ?」
「……うん」
 だけど私は、姉の迫力に負けてそれ以上何も言えなかった。そんな風に強引に私をうなずかせようとしていたときの姉が驚くほど姉の顔をしていたから。
「じゃあ、それでいいじゃない」
 改めて靴を脱ぐと私を置いて1人で洗面に向かっていった姉は、結局私の「ごめん」は受け取ってくれなかったのだと思う。


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