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 イエズス様は奇跡を起こせるとして、じゃあ、マリア様に奇跡を起こす力があるのかどうかはカトリックについてそれほど知識を持っているとは言えない私には自信がないところだった。ただ、少なくともリリアン女学園に通ってからずっと「マリア様が見守ってくださっている」と先生やシスターに諭されてきたわけだから、そこで起きた出来事はやはりマリア様の管轄なのかもしれない。
 いずれにしても私は、舞い上がった気持ちをあるべき場所に引き戻すように重く自分に言い聞かせていた。今日この日は奇跡なのだと。真美さまと別れたあとの帰り道、姉は声をかけづらそうにしていた。そのとき私はもしかしたらそういう雰囲気を意識的に、そして無意識に作っていたのかもしれない。
 その幸せはこれ以上なんてないと思えるほどのもの。だから、その時間に巡り合うことはもう二度とない。そう、だってその時間は「奇跡」だったのだから。
 繰り返すことなんてあり得ない。まして再び巡り合えるだなんて、奇跡を与えてくれたマリア様を侮辱するような考えを持つことなどできるはずもなかった。
 私は自分が自分で思っているよりずっと鈍感でバカなのだと今日知ることになったけど、でも、そのひどく重要で大切な事実にまで気付かないほどの鈍感やバカじゃなかった。
 そのはじまりはもう1年半以上前、姉にお姉さまができた日に生まれた落ち着かない気持ち。
 スールというもう1つの姉妹。その関係は何なのか、その関係はどんなものなのか、私の中にはそれからずっとその疑問が居座り続けていた。動き回ることも休むことも、騒がしくすることも大人しくすることもあったけど、決して消え去ることはなく。
 その疑問には答えが出ることなかった。そしてきっと、答えが出ないからこそそれがなくなることもなかったのだ。わからない。それは今も変わっていない。
 だけど、いつだっただろう。私は気付いたのだ。その人に向ける尊敬や憧れ、その人と過ごす時間の楽しさや嬉しさ、それは他の尊敬や憧れを向ける人のそれとはまったく違うものだということに。
 好き。
 その、この心で唯一の特別な思いを私自身が認めたことは、その疑問に対する私にも1つの変化をもたらした。姉妹という関係がどんなものかはわからないまま。だけど、もしも私が誰かを「お姉さま」と呼ぶとしたら? その想像には当たり前のようにその人以外の誰も浮かぶことはなかったのだ。
 真美さまが好き。
 真美さまの妹になりたい。
 この2つの気持ちがイコールで結ばれるものか、結んでいいものなのかもやっぱりわかりはしない。でも、それは私にとっての1つの答えだったのだろう。
 例えば姉がお姉さまの家に電話をかけることにたった1つしか理由が必要でないように、会いに行くことに、お喋りができることに、そして、隣にいられることに理由がいらなくなるその理由が私はほしかった。「姉妹だから」、ただそれだけでそれ以上の何も必要ないその関係が。尊敬も憧れも、他にもたくさんの思いを「お姉さま」とたった一言に込められるその関係が。
 いつもの駅で降りたときには完全に止んでいた雪が、家まであと数分というところでまたはらりと舞った。ただ静かで微かに降るそれは見間違いでも済ませられるものだったと思う。だけど、姉は自分のピンクの傘を開くと私に差しかけたのだ。話しかけるタイミングをやっと手に入れたかのように。
「ねえ、なっちゃん」
「お姉ちゃん。私、わかってるから」
 けれど、私はその空は受け入れたけど言葉は受け付けなかった。姉が二の句を継げないような強い口調ではねつける。肩が触れ合うくらいに寄り添って、でも何か言いたげな姉にもう一度「私、わかってるから」と繰り返して。
 姉が何を言いたかったのか、私は「わかった」とは言ったけど、本当はわかってなんていなかった。だから姉のそれはもしかしたら今日の夕飯が何かを予想してみただけのものだったのかもしれない。でも、私はそれがどんな内容であろうと今は聞きたくなかったのだ。
 私が痛いほど「わかってる」それこそ、気付いていたひどく重要で大切なことだった。4月になれば真美さまは1つの権利を得ることになる。妹を作ることができるその権利を。そして、そのとき私はまだ真美さまとは違うこの制服のまま。
 もうすぐ季節は春に移り、この白い雪の代わりに白にほのかな紅をさした桜が舞う。この雪とその桜の違い、それは……。
 桜はいくら降ろうとも傘なんて差さなくてもいいということだ。


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