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 きっと「奇跡」という言葉で表していいようなことなんて、この広い世界の中でもほんのわずかにしかないのだと思う。だけど、確かにその言葉はあって、だから間違いなくそう呼ぶべきことがこの世界には起きてきたのだろう。
 奇跡の意味は一応辞書には載っている。常識で考えたらあり得ないようなこと。でもその範囲の広すぎる定義じゃ捉えどころがなさ過ぎてよくわからない。ある人にとってはそれが奇跡でも、別の人から見ればそれは珍しいこと程度なのかもしれない。だとしたら、奇跡は人の心が決めるものなのだろう。人それぞれ奇跡と思うことの基準は違うから。
 同じ学校の高等部と中等部に通う生徒が1つの傘の下を歩く。
 もちろん私だって、それが「奇跡」と呼ぶべきものでないことくらいわかっていた。だけど、その幸せをどう表すかを考えると私はその言葉に頼る他なかったのだ。だって「奇跡」と違って「幸せ」は世界中にあふれていて、それなのにその言葉は「奇跡」と同じひどく広すぎる意味の言葉だったのだから。
 真美さまにチョコを受け取ってもらえた。真美さまと1つの傘で歩ける。
 その1つが叶うだけでもこの胸はいっぱいになって、もうこれ以上なんて望んじゃいけないと思っていたのに、もう1つの大きな大きな願いまで叶うなんて……。私はその奇跡のような幸せにただただ深く感じ入って、胸を熱くさせるばかりだった。
 小さな傘になるべく2人とも収まるように寄り添って、だけど、くっついてしまわないようにと右肩にすごく気を付けた。だから本当ならもうちょっと、収まりきらなかった左肩に降る雪は少なくて済んだのかもしれないけれど、でも、そうして肩が触れ合わないことも、余計に雪を受けたことも、私にとっては幸せだった。
「私が持つわ。居候だし」
「い、いえ。ダメです。私が持ちます」
 真美さまが伸ばしかけた手から傘の柄を守ったその瞬間が幸せで。
「止んできたかしら?」
「……そうかもしれないですね」
 それでも私の小さな空の下に真美さまがそのままいてくれたことが幸せで。
「先に失礼していい?」
「はい」
 マリア様の前、手を合わす真美さまの隣で待っているその時間が幸せで。
「じゃあ、なつちゃん、どうぞ」
「……はい」
 私が手を合わすそのときに譲った傘の柄で、真美さまが2人の空を支えてくれたことも幸せだった。
 そこにある全てが幸せで、幸せしかそこにはなかった。
 その日3度目になったマリア様への祈りを終えると、私は一足ごとに確実に近付いていく終わりの瞬間を感じながら歩いた。真美さまに甘えて傘を自分で持つこともせず、ただ大切に大切に歩む。そうしてなくしていく時間さえ私には幸せだった。
 雪は真美さまが言ったとおり積もる様子はなく、だからきっと地面に私たちの足跡が残ることもなかっただろう。それとも、振り返ればそこには微かにでも残っていたのだろうか? 3人の足跡、真ん中の私のそれが姉の足跡よりもずっと真美さまの足跡に近かったということが。
「ありがとね。なつちゃん」
「……いえ」
 雪を軽く振るい落として傘を閉じる。その終わりが来た場所はバス停だった。真美さまと2人きりだった淡い黄緑の小さな空は姿を消して、新たに私たちの空になったバスの天井はずいぶん明るくて広かった。
 新しい空は私を左右どちらの肩にも気にかけずに済むようにさせてくれたけど、でも、私の胸の熱が下げることは微塵もなかった。だって、そこには夜の闇とは比べものにならないほど光が満ちていて、真美さまの優しい笑みを瞳ははっきりと映すことができたから。
 別れる駅で「ごきげんよう」と交わし、私はしっかりとその姿を見送った。
「雪、きっとまだ降りますから」
 そうして押し付けた黄緑色の傘が、どうかもう一度真美さまの空になってほしいと祈りながら。


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