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「帰るわよ」
プティ・スールと実の妹。そのシーンを見守っていた姉は絶妙のタイミングで沈黙を解いた。何かため息をつくように。
ほっとしていたのか、苦い思いをしていたのか、視線を向けたその瞬間にはもう姉は歩き出していて、その表情をうかがうことは私にはできなかったけれど。
「雪、ちょっと強くなってきたわね」
2人の妹の真ん中を歩く。他愛もないつぶやきをこぼしてくれる。そんな姉の存在がありがたかった。だって、姉がそうしてくれなかったら私は歩き出すことさえしなかっただろうから。ここから動きたくない。いつまでもこのままでいたい。真美さまと向かい合い、思いを手渡した瞬間のその気持ちは雪がいくら強くなろうと揺らぐことなんてないものだったのだから。
「でも、このくらいじゃきっと積もらないと思いますよ。お姉さま」
「……真美、あなたね。別に私はそんなことまで聞いてないでしょ」
「あ、そうですね。すみません」
きっと、そんな姉の存在は真美さまにとっても助かったのだと思う。「没収」したチョコの箱をかばんにしまうと、いつもと同じテンポで姉のつぶやきに応えるその姿は何事もなかったようで、私はそれになぜだかひどくほっとしている自分を感じた。
「没収」というそれがどういう意味かを考える必要なんてない。私の思いは真美さまの元に渡ったのだ。だからもう、わがままは終わり。だからもう、真美さまを困らせるような真似、絶対にしたくなかった。そう、その意味に気付いてほしいだなんて、何があっても言葉にも表情にも出しちゃいけない。
会話に入ろう。私は思った。私も姉のように、真美さまのように。……何事もなかったように。
降ったり止んだりを繰り返す雪はそのとき一番の降り方になっていた。真美さまの言うとおり確かに積もりはしないだろうけど、冷たいそれを身体に受け続けたら風邪を引くかもしれない。
「……お姉ちゃん、ちゃんと傘持ってきてるの?」
「もちろんよ。今日の天気はしっかりチェックしてたんだから」
私の問いにわずかに演技のような憤慨する口調で返した姉は、かばんから折りたたみの傘を取り出すとやや自慢げにカチャリと開いた。姉と暗く厚い雲の間にもう1つ空ができ、細かな雪の粒を柔らかく受け止める。傘を花に最初に例えた人は誰なんだろう? その姉にとっては空になったピンク色の花を繊細な氷の結晶が彩る様はとてもきれいだった。
「イベント中に降らなくてよかったわ」
私は姉のその回想に重ねるように自分の上にも1つの空を作った。「まあ、日頃の行いがいいから当然と言えば当然よね」なんて、そんな言葉はもちろん聞き流しながら。
私の空は淡い黄緑色の小さな花。
もしかしたら姉はそうやって訂正してあげる気も起こらないようなことをわざと言ったのかもしれない。私は自分が自分の思いにつぶされずに歩いていられることを思うと、それが単なる偶然であっても姉の目論見どおりであっても、姉にはまた少し頭が下がる思いだった。こうして少しずつ、私も「何事もなかったように」に近付いていければいい。
そう、私はこのとき決してそれ以上のことなんて望んではいなかった。姉を挟んだ向こう側には、いつか見た水色の花が咲くと信じて疑うことなんてなかったのだ。なのに……。
「真美? あなた傘は?」
姉がしたその質問を聞いた瞬間、私は息をのんだ。無意識に耳に意識が集中していく。それは間違いなく、2か月ちょっと前のあの日を私が思い出したからだった。あの水色の空を見つめていたそのときの願いを思い出してしまったから……。
私はその人が返す答えに期待をかけた。いや、それは希望と言う方が正しいものだったのかもしれない。切なる望み。でも、結局それはいずれであったとしても、叶ってくれることはなかったのだ。
真美さまは言った。隠すのに失敗した恥ずかしそうな気配をほんのわずかににじませて。
「いえ、その……忘れてしまったみたいです」
期待とは逆のその答えに、胸の中の願いは予想通り勝手に膨らみはじめていた。
なんて浅ましいんだろう。私はそんな風に自分が欲深くなっていくのが嫌だった。だけど、理性を保つようにかけた期待が破れてしまったら、もうそれを止めることなんてできはしなかった。