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待ち合わせの場所は決めていなかった。時間も決めていなかった。それに、そもそも私は姉に同意を得ていたわけでもなかったから、一方的に私の都合を押し付けられた姉はそれを理由に私とすれ違うことを選ぶことだってできたのだと思う。自分の妹がもう1人の妹にチョコを渡すというそれを好ましく思わないならなおさら。
だから私は、長い銀杏並木を1人逆の方向に進んだ先に2人が並んでいるその姿を見たとき、姉に対して生まれてからこれまでで一番感謝して、これまでで一番心苦しく思ったのだ。私がこんな気持ちを抱えていなければ、姉は心置きなく2人きりでこのバレンタインを過ごすことができていたはずだったのだから。
私は菜々さんに伝えられなかった大切なことをまた噛みしめた。右手をその温度の違う胸に当て、掴むようにその手を握って。
この時間が終わったあと、姉にも必ず伝えると誓った。そして私は、菜々さんのときと同じように「それまでは」と、心苦しさもしまいこんだのだ。こうしてそのときを作ってくれた。だから姉にも遠慮しない。わがままを通させてもらう。
音を立てず深く息を吸いこみ、背筋を伸ばし、笑った。
「ごきげんよう。真美さま」
「ごきげんよう。なつちゃん」
出会ってからずっと、変わらないその人に思いがまたあふれてくる。そのたった1人だけの「つ」が全てのはじまりだったとわかる。嬉しい。そう呼んでもらえることがたまらなく幸せだった。チョコレートに込めるだけ込めたはずなのに、この思いにはどうして限りがないのだろうか。
私は胸だけじゃない、全身で思った。この人が好きだ。私は山口真美さまが好きなんだと。
片手に乗せるのがちょうどいいくらいの正方形の箱。その形にした思いをかばんから取り出すと、不安定な心のように降ったり止んだりを繰り返していた雪がまたはらりと落ちてきた。
もしもそれが天の心だったのだとしたら、それは最後の警告だったのかもしれない。だけど、その雪は私の手やそこにある箱に触れるとひとときも置かずにふわりと解けた。私は天の望みとは裏腹に改めて自分の中で育っていた思いの強さを知る。だから、止められるわけがなかった。
「真美さま、あの……」
「なあに?」
「これ……、……受け取ってください」
寒さのせいじゃなく、微かに震える差し出した手。私は心の中で祈るようにささやいてた。そしてどうか気付いてください。
いつも変わらずピシッとピンで留められた前髪は、そこにある瞳の光をどんなときも遮ることはなかった。そのいつも表情より豊かに笑っていた瞳の光がわずかに困惑で揺れる。真美さまは今日この日が何という日であるかもちろんわかっていて、だから差し出されたそれが何であるかもすぐに理解したのだ。
「……チョコ?」
「はい」
「あれ? でも、中等部はチョコ禁止よね?」
「はい」
問いかけにきっぱりとうなずいたそのとき、私は自分の瞳にはひとかけらも迷いの色はないと確信できた。そう、禁じられているからこそ、私はあえてそれを破ったのだ。
「『はい』って……、ダメじゃない。なつちゃん」
その完全に開き直った私の態度に真美さまはあ然として、それから呆れるようにそう返した。だけど、私はそれでもただしっかりと「はい」とうなずくだけ。悪いことだって、いけないことだって、ダメなことだって、全部わかってる。だから叱られても咎められてもいい。ただ、この思いを受け取ってもらうまで、そのときまでは一歩も引かない。
ほんの少し強くなった雪が差し出した手にまた落ちてくる。だけど、その箱にはひとひらも舞い降りることはなかった。私が見つめていたその現象は、きっと真美さまの目にも映っていた。
諦めたように、真美さまは言う。
「じゃあ、これは没収するわね」
私は全身の思いを振り絞り、最後まで同じ言葉を繰り返した。
「はい」
そして、この手を離れた思いがその人の手に残った。