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 当たり前のことを当たり前に流せないのは、きっと私が当たり前の状態じゃないからなのだと思う。
 目に映る風景からは図書館に入ったそのときよりも陽の光が退いていて、身体には建物の中では吹かない風が吹いていることを感じた。それは何一つ特別なことなんてない。本当にごくごく当たり前の、むしろそうでなければおかしいようなことだったというのに。
 どうしてその場所から逃げ出してしまったのかはよくわからない。だけどそこから離れてわかる。その場所はやはり私にとって心の休まる場所だったのだと。だから私は今こうして、きっと心細いと言っても間違いではないような心持ちでいるのだと。
 これからどうしたらいいのだろう? 私は何の当てもなく歩きはじめ、当然のようにほんの数歩で立ちすくんだ。どこに行けばいいのかも、どれだけの時間を過ごせばいいのかもわからない。そうやって不確かさが不安の種を蒔くと、辺りの薄暗さも頬をなでる冷ややかな風も頼みもしないのにそれを育ててくれていた。
(でも……)
 私はふと思った。こうして予定よりも早く外の世界に出たことも必ずしも悪くなかったのかもしれないと。あと30分、あと1時間、時間が進んでいたら、光はもっと失われていただろう。風はもっと鋭かっただろう。なら、そのときそれに立ち向かうより今の方がずっと楽だ。それはやや無理矢理な感じもする納得の仕方だったかもしれない。ただ、少しは効果もあったような気がした。
 高等部の中庭の方からは何が起こったのか、「ええ――!」とそれまでで最大級の驚きの声が大きな波となって響いてきた。そしてそれが通り過ぎたあとも小さな波がざわざわと寄せてきている。まだ、もう少しかかるようだ。
(……あ)
 そんな芯のない思考の中に佇んでいた私ははたと思い出し、背後にある図書館に振り向いた。そういえば、初めてちゃんと言葉を交わしたあの日も出会ったのはこの場所だった。姉のいない2人きりになった初めての日。他の誰とも違う呼び方で私を呼んでくれたあの人はいくつもの笑い方で笑っていた。お姉ちゃんの妹は案外面白い人で、だけどちょっと困った人だと思った。
 それからも何度か会うことがあったその場所での出来事を思い浮かべると、私はまた歩き出す。行く当てができたから。
 いつからその人は私にとって気になる人になったのだろう。いつから私の目標になったのだろう。そしていつから、その人への憧れや尊敬はその言葉を越える意味を持ちはじめたのだろう。その思いの入ったかばんを両手で持つと小さくきゅっと力を入れた。
 中庭、銀杏並木、高等部との分かれ道。
 図書館、お聖堂、ミルクホール。
 そこであった出来事を拾い集めるように私は歩いた。そこで感じた気持ちを思い返しながら。高等部の敷地にも入ったけれどコートでリボンが隠れていたから誰にも呼び止められるようなことはなかった。
 歩き回る間に陽は加速度をつけるように落ちていき、それに比例するようにざわめきも治まると今度は反動のように静寂が辺りに立ち込める。きっと空気も、ときどき空が白いものを落としていたくらいだから、それと同じように温度を下げていたのだろうけど私はそれは感じなかった。ゆっくりとだけど歩み続けた身体は確かに温かかったから。
 途中で時計を見ることのなかった私が、どのくらいの時間でそこまでたどり着いたのかはわからない。だけどほとんど最初から、最後に行き着くのはこの場所だと思っていた。
 マリア様の前。
 そこで私はようやくゆっくりと立ち止まって、今度は立ちすくむのではなく自分の意思でそこにしっかりと背筋を伸ばして立っていた。温まった身体のほんの一か所、温度が違うことを感じる。それはきっと、そこが心に一番近い場所だからなのだろう。
 まだ帰るわけじゃないけれど、私は一歩歩み出るとどんな日も変わらずにそこにいてくれるマリア様に手を合わせた。語りかけた思いは「ごめんなさい」であり「ありがとうございます」。だけど、それはきっと正しく言葉にすることは不可能なものでもあった。
 きびすを返しつぶやく。
「行こう」
 ぱらぱらと帰る人の流れに逆行して私は進む。また、胸が熱くなっていた。


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