− 53 −

 きっと、伝えたいことは伝えたいと思ったその瞬間に伝えきゃいけないのだ。考えてみればそれは当たり前のこと。だって、あとから伝えようとしてもその機会はもうないかもしれないのだから。
 もちろん、そのときの環境や状況、相手にも自分にもいろいろな事情があるから、どうしてもそうできないことだってあるけれど、たぶんそのときはその「どうしてもそうできないとき」ではなかったと思う。
 思ったことを言葉にうまくできない、まして声にはなおのことできない私は、それまでも同じような後悔や反省を重ねてきたはずなのに、また失敗を繰り返した。午後の授業が終わり放課後、伝えそびれたことを伝えようと私が菜々さんを尋ねたときには隣のクラスはすでに解散していて、そして結局その日私は再び菜々さんに会うことはできなかった。私はあのときその背中を引き止めるべきだったのだ。
 伝えそびれたそれは大切なことだった。少なくとも私にとっては。
「うまくいく……うまく……」
 教室のあと、未練のように少しの間、校舎の中を菜々さんを求め歩いていた私は何度そんな風につぶやいただろう。
 私を許して、最後に背中まで押してくれた菜々さんはマリア様の使いじゃなかったのかもしれない。あるいは私のために使命を放棄してくれたのかもしれない。いずれにしても昼休みに菜々さんと別れたあと、改めてマリア様の使いが私の前に現れることはなかった。
 企みが果たしてマリア様にも許されたのかどうかはわからない。ただ、少なくともあとは影を潜め、息を殺してそのときを待ちさえすれば私の望みは叶うだろう。そのときが近付くにつれ、かばんの重さは朝よりもわずかずつ増しているよう。だからこそ、私はそれを感じるたびに後悔したのだ。菜々さんには伝えなきゃいけなかったのに……、と。
 菜々さんにしろ私にしろ、例えば風邪を引くとかしなければ明日も明後日も普通に登校するだろう。機会を逃してしまった以上、私にはもうそのときに伝えるという選択肢しか残されていないし、もちろん私はそのときちゃんと伝えようと強く心に決めていた。明日だってきっと手遅れということはない。そもそも、菜々さんに伝えることで何か結果が変わるということはないのだから。
 明日伝えさえすれば、あるいは明後日でも明々後日でも、私からそれを話しさえすれば今日伝えなかったからといって、私を信じてくれた菜々さんを裏切るということにはならずに済むのだと思う。そして、それを聞いた菜々さんも驚くことはあっても私を軽蔑するようなことはないと、そう信じることもできた。自分の失敗を棚に上げるようだけれど、今日通じ合えた私たちはそんなにもろくないはずだから。
 そう。「だからこそ」だ。だからこそ私は、今日そのときが来る前に伝えておきたかった。かばんにしまった私の思いを、あの人に差し出すその瞬間が来る前に。だって、同じ言葉でも伝えるときが違えばその意味も、その価値も、その重さも変わってしまうから。
 「わかってほしかった」なんて願うのはやっぱりわがままで、私はそれを望んでるわけじゃない。ただ、納得してくれなくてもいいから、とにかく「知っていてほしかった」。私を信じてくれた菜々さんにだけは、私のこの気持ちを。
「うまく……か」
 私が最後にそうつぶやいたのは図書館の扉の前。
 菜々さんは見つからなかった。伝えたかったことは伝えられなかった。だけど、私はそれを受け入れるしかなかった。動かしがたい現実を変える方法がない以上、諦めることだって必要なときがある。高等部から流れてきた少し浮ついた空気が、私にそのときが近付いていると語りかけていた。
(明日、ちゃんと言おう)
 私は心の中、伝えられなかったこととこうして割り切ったことをちゃんと謝るのだと強く自分に言い聞かせた。そして、「ごめん。だからそれまでは、後悔はしまっておかせて」と、菜々さんへの思いを全て心にしまい込む。
 いつもと同じ場所でそのときを待つことにした私は、そうすることでもしかしたらいつもの私に少し戻るかもしれないなんて、今の自分がいつもとどう違うのかや、戻る必要があるのかどうかもわからずに思った。扉を開け、いつものその場所に足を踏み入れる。その瞬間にどこかほっとしていたこの心は、その想像のとおりだったのだろうか。
 それから少し、空気に遅れるようにざわめきが耳に届いた。その日も静寂を保っているそこには外からの音もよく通る。私の心はそれに反応して、弱い地震の振動のように微かに揺れていた。やっぱり落ち着くことはできないかもしれないと、そう思った。
 その空気も音も、どちらもが姉が作り出したもの。そして、その姉の隣には間違いなくあの人がいる。


前のページへ / ページ一覧へ / 次のページへ