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例えばそのとき、私は嫌がられるまで菜々さんに強く強く抱きついて離さないくらいのことはしてもよかったのかもしれない。いや、きっと本当はそのくらいのことはしなきゃいけなかったのだろう。確かに聞き取ったその言葉に感じた私の思いは、もし本当にそうできていたとしても伝えきれるものではなかったのだから。
その瞬間、私の心にあふれた感情は何と呼べばいいものだったのだろう。
私は自分の心を言葉にすることが苦手だった。それは嬉しいとか悲しいとか、そういう簡単なものでさえそうだったから、そのときのとても複雑で、とても純粋な思いを私は言葉にすることがやっぱりできなかった。そう、だからこそ本当は少しでも行動してその私の心を伝えなきゃいけなかったのに……。
その気持ちは「申し訳ない」とか「すまない」なんて言葉じゃ全然償えないほどの反省と悔い。「嬉しい」や「ありがたい」なんて簡単な言葉にしちゃいけないくらいの喜びと感謝。
私が菜々さんを信じられないなんて、そんなことあるわけがなかった。私は菜々さんに私をほんの少しでも信じてほしくて、まさかその同じ気持ちが菜々さんから私にも向いていたなんて、それこそが信じられないことだった。まして、菜々さんのあの唇をかんだ姿が、細い細い「悔しい……」が、私に信じてもらえなかったと思った菜々さんの心だったなんて。
「……」
鐘の音が終わるより早く菜々さんは言い終えると、鐘の音が微かな余韻を残すようにほんの少しの間だけ私を見つめ、そして逸らした。きっとどんな鈍感な人だってこんな風にされたら……いや、こんな風にしてもらえたら絶対にわかる。だって、私にもわかったから。鈍感じゃないなんて嘘で、本当は最低なほど鈍感だったこの私にさえ。
信じてほしい。それは間違いなく私たちが同じように抱えた思いだった。
「……」
私が菜々さんからもらったその気持ちに返せたものはきっと何もなかった。この場所に来たときと同じように、またその手を取って駆けたことだって、握った手の強さだけを考えれば前より劣っていたに違いない。だけど、ただただ必死に握り締めた少し前のそのときと、もう私は違うから。
大切に、大切につないだその手に、自分のことしか考えていなかったさっきは気付かなかったことに今度は気付ける。剣道をやっている菜々さんの手は少し私より硬くて、そして温かい。手の冷たい人は心が温かいなんて、それが迷信だとはっきりわかる。だって菜々さんの手は、心は、こんなにも温かい。
「……」
「……」
校舎に入ってまず駆けていた足の速度を落とし、それからもう少しだけつないだままにした手をゆっくり解いた。そのときまで菜々さんも私も無言のままだった。そして、再び顔を向かい合わせたそのときに、私たちは同時に口を開く。
「ありがとう」
「ごめん」
そのとき私は、やっと正しい言葉を菜々さんに伝えられたのかもしれない。菜々さんが言った言葉の方がたぶん私にも口にしやすかった。だけど、私が言うべきなのはそっちじゃない。もちろん、菜々さんがそんな風に言わなきゃいけない理由だって私にはあるとは思えなかったけれど。
何が「ありがとう」で、何が「ごめん」なのか、私たちはお互い聞いたりしなかった。きっと2人とも互いに自分のそれを説明することがとても難しいことを理解していて、だから相手のそれだってとても難しいのだとわかっていたから。そして何より、私たちには細かな説明なんて必要なくて、その一言が重なったという、そのことだけで十分だったから。
それぞれの教室に分かれたそのときに、菜々さんは私の背中を押していってくれた。
「うまくいくといいね」
そしてそのまま、流れるようにスッと教室に入っていった背中は、口下手な私が答えるのを待ってくれなかった。
そのとき、私は1つ大切なことを伝えそびれてしまっていた。