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「……そんなこと、ないと思うけど」
その言葉を搾り出すだけで、私は数秒の時間を必要とした。
たぶん、そのときの私を的確に表すとしたら「射すくめられた」と言うのが正しいのだろう。菜々さんは特別きつい視線で私を見つめていたわけじゃなかった。いや、もしかしたらそれは本当は普段とほとんど変わらないものでさえあったのかもしれない。だけど、この日このときこの瞬間、私の心にとってそれは穿つような鋭さを持った眼差しだった。
「本当に?」
重ねて尋ねてくる菜々さんの目にどんな風に私が「いつもと違う」風に映っていたのかはわからない。ただ、この日は私にとって特別な日で、だから私の心も、この日はいつもと違う特別なものだったに違いない。その外見になんてきっと現れていない、他の誰も気付きはしなかった変化を菜々さんは確かに感じ取ったのだ。
「……うん。別にいつもと変わらないよ」
だけど、私は白を切ることを続けた。だって、まだ隠していることまで知られたわけじゃない。そしてそれは隠せる限り、隠し通すと決めていることだったのだから。
「そっか、そうだよね。やっぱり私の勘違いだったみたい」
そう言って菜々さんは恥ずかしそうに頭をかいた。私から逸らした視線は落ち着きどころを失ってうろうろする。そう、それは私の望みどおりのことで、全て菜々さんの勘違いということにできれば私はそれでいいはずだった。それなのに……。
「……」
私はどうしたいというのだろう。ここで「別にいいよ。気にしてないから」と返す、それだけで話は終わり私は危機から逃れることができるのに、その言葉は何かに押さえられたようにのどの奥から前に進んでくれない。
「ごめんね、なっちゃん。変なことして」
「……」
「なっちゃん、……怒ってる?」
そんな私のせいで菜々さんの表情はまた変わり、今度は申し訳なさそうな顔を通り過ぎると焦り顔になった。
ズキッ。
その不安げな色を浮かべた顔で私の様子をうかがう菜々さんに胸が痛む。それは私の心の葛藤が生んだ痛み。だって、今日という日の私に気付いた菜々さんはとても敏感で、それは菜々さんが築山なつのことを気にかけてくれていたからこそなのに。
どうして嘘をついている私に菜々さんが謝らなきゃいけないの? どうして隠し事をしている私が菜々さんを謝らせるの? 菜々さんは何も間違ってないじゃない。
私の中で私に問いかけてくる言葉は、のどの奥からようやく言葉を押し出す力にもなってくれた。
「怒ってなんて、ないよ、全然」
だけど、その問いかけは響くたび胸にきりりと痛みを伴ったから、それを押して伝えた言葉もやっと口に出せたそのときには、まるで正反対のことを言っているようにしか聞こえないものに変わってしまっていたのだ。
「なっちゃん……」
そして、私自身にそう聞こえた言葉は無慈悲に私の希望を裏切って伝わった。菜々さんはまた「ごめん。なっちゃん」と頭を下げて、だから私は、また胸の中響いた問いかけに重い痛みを覚える。何でなの? 菜々さんは何も悪くない。悪いのは私なのに。
私は菜々さんが謝ることが嫌で、そんな風にさせている自分がもっと嫌だった。誤解を解きたい。でも、私は自分の言葉が信じられなくて。だから……。
「……ごめん」
たった一言。私は精一杯の気持ちでつぶやくと菜々さんの手を取った。そして、そのまま強く握って走り出す。
「えっ、なっちゃん、ちょっ」
「……」
突然の私の行動に焦る菜々さんを私は無言のまま引っ張った。ただ、この右手がつながる菜々さんの左手だけ離さないように。
駆けていくそのとき私は、こうすることであとから後悔をすることになるかもしれないと、そのこともちゃんとわかっていた。だけど、それでもいいと思ったのだ。
菜々さんだから。たった1人私の思いに気付いてくれた菜々さんだから、それでもいいんだと。