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その年のバレンタインは父に渡すチョコレートも手作りになった。
片手に乗せるのがちょうどいいくらいの小さな正方形の箱に4つ並べたチョコトリュフ。バレンタインデー当日の朝、それを渡された父は大げさなくらいに喜んで、その場で包みを開けると不恰好なそれをあっという間に平らげた。チョコは4個だったのに父が口にした「美味しい」は10回以上。その感想はちょっとひいき目があり過ぎだった。
一緒に渡した姉のチョコは手作りではなかったからか、「またあとで」ということになった。母からのチョコも同様に。
さすがの父も朝食のあとに3人分は無理だったのだろう。いや、朝食のあとじゃなくても、そもそも朝からたっぷり甘いものを食べるのはちょっと厳しいから、父の判断はそういう意味でとても賢明だったと思う。朝、昼、晩。もらったチョコも3つ。順番の問題はあるにしても、それはとても公平な処理の方法だった。
そんな朝のやり取りにほんの少し私は気が咎めた。だって、父へのチョコが手作りになった理由自体それがカモフラージュだったからだし、父の箱に入れたトリュフ4つが不恰好だったのも、なるだけ形の整ったものを抜き取ったあとの残りだったから。父親に贈るチョコは「義理」なのか、それとも娘の「義務」なのかよくわからないけれど、いずれにしても私はそれを「本命」のために利用したのだ。
もちろんそんな私の思惑を父は知らないし、母もきっと気付いてはいないだろう。姉はもしかしたら気付いていたのかもしれないけれど、何も言うことはなかった。……また、気を遣われたのかもしれない。
そんないくつもの細かな心苦しさはありながらも、私の気は楽になる面もあった。そしてそれは直後に気が引き締まる思いに変わる。
チョコを渡す相手のうち1人には渡すこと、食べてもらうこと、感想をもらうことの全部が終わった。それはつまり、もう私にとってバレンタインデーは「本命」であるその人ただ1人のためのものになったということに他ならなかったのだから。
「いってらっしゃい。三奈ちゃんもなっちゃんも気を付けてね」
「いってきまーす」
「行ってきます」
イベント当日だからか、その日はちゃんと早起きをした姉と久しぶりに同じ時間に家を出た。2月14日、まだ春は遠くて、断固として冬を主張するようなその空気はコートと手袋を身に着けているとはいえかなり厳しいものだった。隣を歩く姉はちょっと背中を丸めるように縮こまっている。それは、とても素直で自然な反応だった。
だけど私は、そんな姉とは逆に背筋を伸ばして歩いた。今日1日、どんなときもそうやって堂々としていようと思った。空気がいくら冷たくても、先生と目が合ってしまったとしても、そして、その人に思いを差し出すその瞬間もずっと。
禁止されているチョコレートが入っているかばんの重さは腕にとってははほとんどいつもと変わらないけれど、心には間違いなくいつもは感じることのない重みを与えていた。
背筋に力を入れる前はそれはずしりとのしかかってくるようで、自分の口から出た白い息もまるでため息のようにさえ見えたけど、背中を真っ直ぐに伸ばしたあとは驚くほどその重さを感じなくなった。
身だしなみに姿勢。幼い頃から先生やシスターがその大切さを強調していた理由を、私はそのとき初めて実感をもって理解できたかもしれない。外見と内面は一見関係がないようで実は互いに深く影響し合っている。姿勢を正したからといって自信満々になれるわけじゃないけれど、でもそうすることで心は少し強くなれるのだ。
電車とバスを乗り継いで、マリア様の前に差し掛かったそのときに私は小さく息を吸って言った。
「お姉ちゃん、今日一緒に帰りたいんだけど」
「別にいいわよ。でも、どうして?」
やや怪訝そうな顔をして姉は理由を尋ねると「今日は宝探しがあるから時間が読めないし遅くなるかもしれないわよ」と補足説明ををしてくれた。でも、私にももちろんそのくらいのことはわかっている。だから私は「いいよ。待ってるから」と返して、そのあとに一緒に帰りたいその理由をはっきり告げたのだ。
「お姉ちゃん。帰り、真美さまと一緒だよね?」
「なっ、ちゃん……」
はっと息をのんだ姉はやや焦点の定まらない目で私を見た。多分に驚きの色が浮かんでいる顔。でも私にとってそれは、思ったほどのものじゃないとも感じさせるものだった。やっぱり、姉は私の思惑をちゃんと把握していたのだろう。
そんな戸惑いをはらんだ姉に対して。
「新聞部主催のイベントのあとだし、もちろん一緒だよね?」
私は有無を言わさせない口調で念押しをすると、姉には答える機会も与えず早足でマリア様の前に歩み出た。手を合わせ目を閉じていた時間はきっと1秒あるかないか。思いの入ったかばんが後ろめたいわけじゃない。ただ、私はきっと、そのとき何かを祈りたいとは思っていなかったのだ。
「じゃあ、また放課後にね」
姉が私に追い付いてマリア様に手を合わせるより早く、私はそう言ってその場をあとにした。