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「どうかした?」
 真美さまがそう首をかしげたのはとても当たり前のことなのだと思う。わざわざ高等部の敷地に踏み込んでまで自分を捕まえる必要があるということは何か用があるのだろう。真美さまはきっとそう考えたに違いない。だって、それまで一度も築山なつはこんな声のかけ方をしたことはなかったのだから。
 だけどそのとき私は、例えば姉の欠席の連絡とか、そういったわかりやすい用を携えてその人に話しかけたわけではなかった。姉は私が家を出る時間にはまだ家にいたけれど、寝坊してあわてて仕度をしていたけれど、間違いなくその日も元気そのものだった。欠席するなんて100パーセントあり得ない。
 そんな確たる用はない私は頭の中も全然整理できていなかったけれど、とにもかくにも口にした。
「あの、お聞きしたいことがあるんです」
 真美さまはその話の内容を先読みしようとしたのだろうか、少しの間私の様子を観察するようにじっと見てから、結局何も読み取れずに困ったのか「なーに?」とおどけたように尋ね返した。
 真美さまは少しだけ悔しそうにしていたけれど、もちろん読み取れないのは当然のこと。何しろ私自身だって何をどう「お聞きしたい」のか全然決まっていなくて困っていたのだから。
(えーと、えーと……)
「その、何をお聞きすればいいんですか?」
「へ? な、何をって、私に聞かれても……」
 台本のないお芝居をアドリブでこなせるような器用さがあったらどんなにかよかっただろう。とんちんかんにも程があることを口走った私が真美さまに伝えられたのは困惑だけで、私自身に残ったのはそれまで以上の焦りとそれさえ比較にならないほどの巨大で破裂しそうな恥ずかしさだった。
「あ、すみません! そうですよねっ。えっと、えーと……」
「……ぷ」
 そんな私のバカがおかしかったのだろう。真美さまは笑いをこらえられずに吹き出すとそれは程なく「ふっ、くくく……」を経て「あははっ」に変わった。普段はきりりとしている真美さまだけど、そのときの笑顔はやっぱりまだごく普通の高校1年生のそれ。私なんかがそう思うのはすごく失礼だとは思うけれど、それまで見たことのなかったその顔は何だかとても可愛かった。
 そんな真美さまが「……く、……くく」に落ち着いて、最終的に「なつちゃん、面白いわね」と締めくくるまでにかかった時間はきっと秒じゃなく分の単位。
 その時間が私にとってその実際の時間よりずっと長かったことは言うまでもなかったけれど、恥ずかしさを代償に真美さまの笑顔が可愛いことを発見した私にとって、それは必ずしも辛い時間ではなかったかもしれない。いや、もちろん、恥ずかしくてたまらなかったのが心の大部分だったことに変わりはなかったけれど。
「それで、何を聞きたいのか考えはまとまった?」
「……いいえ」
 またいつもの締まりのある顔に戻った真美さまの質問に私は正直にそう首を横に振った。だって、冷静にそんなこと考えていられるような状況じゃなかったし、冷静にそんなこと考えていられるほど私は図太くなかったから。
 すると真美さまは「朝はあんまりゆっくり時間をあげられないのよね」とつぶやいて、それから1つ私に指示を出した。
「じゃあ、今日の放課後までにまとめておくこと。わかった?」
「え……、あ、はいっ」
 一瞬意味がわからなくて、でもそのあとすぐに意味を理解すると私は大きくうなずいた。だってその提案は、真美さまが築山なつというテンポに合わせてくれたものに違いなかったから。


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