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「なっちゃん、あの子と話したいんじゃない?」
 少しの間思案顔をしていた真純さまは、どんな思考の経過を辿ってそう判断したのかわからないけれど、自信有りげな口調でそうささやいた。私に向けた「違う?」って顔も一応そうしてみただけで、それが違わないことはもう確信しているようだった。
「……」
 私は真純さまが思案した時間より短く少し考えて、言葉は使わず、ただ小さく首を縦に動かした。
 その時間は私がまたそのときも躊躇しそうになった時間だったけれど、でもそれだって、真美さまを避けたいだなんて思ったからじゃない。真純さまの確信は正しい。真美さまと話をしたいか、したくないか。答えは本当は考える必要もないくらい簡単なことなんだから。
「じゃあ、またね。なっちゃん」
 私の気持ちを確認した真純さまはあっさり私を置いて高等部の校舎に向かっていってしまった。別れ際にふわっとほんの軽く私の頭を撫でて。
 私はそのとき、前にも一度だけそんな風にされたことがあったことを思い出した。二度目のそれは一度目のときのように胸が痛むようなことはなかったから、それは私にとって何よりだったけれど、でも、私がそれにほんの少しプレッシャーをかけられたように感じたのも、1つの事実だった。
 中等部の生徒が高等部の敷地に入るというのはそれだけで緊張することかもしれないけれど、私の場合の緊張はもちろんそのことじゃない。むしろ私の場合はその点については例外で、姉が忘れたお弁当を届けに足を運んだことが何度かあった私はその緊張には悩まされることはなかった。
(……うん)
 そしてそのときの経験から、場違いの中等部の生徒であろうとちょっと失礼したくらいでは咎められたりしないことを知っていた私は、心の中でつぶやいてゆっくり1歩踏み出した。2歩目からスピードを上げて、5歩目には早足になる。
 その日「とぼとぼ」だった足取りが勢いづいていくのは、その巡ってきた機会を逃してしまったら真純さまにも菜々さんにも顔向けできないことがわかっていたからでもあるし、そのときに「なっちゃんらしい」と苦笑いされることになるのが嫌だったこともある。でも何より、「本当は考える必要もないくらい」私は真美さまに会っていろいろなことを確かめたかったのだ。
 その人に近付いていくときに私が考えていたのは、何を話すかじゃなかった。あとから考えるとそれを考えていなかったというのはどうかしていたと自分でも思うけれど、そのとき私は、一応気まぐれなマリア様に感謝すべきなのだろうかと考えて、結局感謝しなかった。感謝はあとでしたくなったらするだろうから保留ということにしたのだ。
「真美さまっ」
 名前を呼んだときの私は早足にちょっと駆け足が混じりはじめたくらいだった。
「へっ、?」
 真美さまはちょっと変な声を上げて振り返る。その反応の理由は絶対とは言い切れないけれど、突然名前を呼ばれたことに加えて、1年生の真美さまは「さま」で呼ばれることはほとんどなくて、慣れていなかったからだと思う。
 そして、私にとってその少し間抜けな反応は、何だか妙にほっとするものだった。ぐるぐると考えているうちに頭の中で山口真美さまは全然隙のない完璧な人に育ってしまっていたけれど、そんなことはないんだって思えて。
「あ、なつちゃん」
 私を認めた真美さまに、立ち止まって1つ息をついてから私は「ごきげんよう」と決まりごとのその挨拶を口にした。
「ごきげんよう」
 真美さまも同じ言葉を返すと、にこりと微笑む。そしてまた少し私がほっとしていると、とても現実感にあふれた言葉をくれたのだ。
「なつちゃん、スカートのプリーツが乱れてたわ。気を付けなさい」
「はいっ」
 間違いなく叱られたというのに、そのとき私は何だか褒められたような、そんな気さえしていた。


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