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 例えばそのとき、私に救いの手を差し伸べてくれた人が私の知っている人だったとしたら、それはちょっとした奇跡と言ってもよかったかもしれない。もしもそんな風に奇跡に巡り合えたら、私はきっと受話器を取ったとき以上にその人に感謝して、その人には意味不明だろうけど「ありがとう」って伝え続けたに違いない。
 だけど、世界はそんなにうまくはできていなくて、残念ながら受話器の向こう側で話す人は私の知っている人ではなかった。ただ、そのときそんな奇跡を求めていたのかもしれない私が、その相手を自分が知っている別の人のように錯覚してしまっただけ。
『私、リリアン女学園高等部2年の……』
 それだけ聞けばその電話が築山家の誰宛のものかはわかる。そして私は、その声やその話し方にそのあとに続く名前は「伴」だと思って、さらにほっとしていた。その人なら、私が自分の鼓動を抑えるためにほんのちょっと取り次ぐのを遅らせたとしても許してくれると、そう思ったから。
 でも、私が安心して「ありがとうございます」という意味の「ごきげんよう」を返そうとした瞬間、耳元の受話器から聞こえてきたのはそれとは違う名前。
『林と申しますが、三奈子さんはご在宅でしょうか?』
「へ……っ」
 「伴」じゃなくて「林」。思い描いていたものと違うそれに、私は思わず間の抜けた声を出してその人を困らせた。だけどもちろん、その人には落ち度なんて全くない。その人が『あの……、築山三奈子さんのお宅……ですよね?』なんて聞き返さなければならない理由も本当はなかったのだ。
 だから私は、元々の平静とは言いがたい状態にそうしてその人に迷惑をかけたことも含めて軽いパニックに陥ってしまって。
「あ、はいっ。真純さま」
『……! ……』
 瞬間、受話器越しにその人の、はっとして息の止まる音が聞こえた気がした。
 私は自分の耳がいいことは結構自慢だったけれど、その音が本当に私の鼓膜を揺らした音だったのか自信はない。ただ、その本当に伝わってきたかわからないほどのその人の小さな呼吸には、私に自分が口に出した名前が誤りだったということを理解させる効果と私のパニックを一瞬で鎮める2つの効果があった。
 あとから考えると、その効果の前者はもちろん納得できることだけれど、後者はどうしてそうだったのか自分でもわからない。それはこの電話のベルが鳴ったときのように、理由のわからない、だけど確かなこと。だからもちろん、その2つの事実がともに電話の向こう側にいる同じ人によるものだったということについても、それが偶然なのかそうでないのかは、わかるはずもないことだった。
「あっ……。すみません」
 でもどうして、この人はそんなに驚いたのだろう? パニックの治まった私はそんな風に思いながら謝った。するとその人は続くわずかな沈黙のあと、ため息のような少し長い息をついてから尋ねてきた。
『……三奈子さんの妹さん?』
「は、はい」
 その人は私がどういう相手かを理解すると、小さな子どもに言い諭すようにゆっくりと告げる。
『私、林浅香って言うの』
 そしてそのあとには、私に聞かせるつもりじゃなかっただろう、重くとても小さなつぶやきが続いた。『……真純さんじゃない』と。
 きっとそれは、私の耳が自慢できるほどによくなかったら、その人が考えたとおり聞き取らなくて済んだものだったのだと思う。だから私はこのとき初めて自分の耳がいいことを悔やんで、だから私は名前を間違えたときよりずっと強く噛みしめながら言ったのだ。
「ごめんなさい。浅香さま」
 すると、その人は笑いながらこう返した。
『いいのよ。間違いなんて誰にでもあることだもの。だけど、今度からは間違えないでね』
 その言葉に私は一も二もなくうなずいた。だって、耳に響くその人の小さな笑い声がなぜかとても哀しかったから。


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