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 リリアンかわら版。
 クラスメートからたびたび見せられるようになったその新聞は、私にはその面白さがあまりわからないものだった。
 当たり前のことだけど、それは私やクラスメートのような中等部の生徒向けに書かれているものではないのだ。だから、そこに出てくる名前はクラスメートが盛り上がる「薔薇さま」と呼ばれる人だろうと、あまり盛り上がらない高等部の先生だろうと、私にとっては知らない人で変わりはなかった。
 その人自体の魅力がわからない。それは、その人に起きた出来事や、その人の言葉、行動に対する面白さや楽しさ、感動というものに正しく反応できないということだと思う。
 芳しい反応が返ってこないことをわかっているのに質問をしてくるクラスメートに、いつもどおり少し困りながら考えて私は思った。現実感が伴わない。それこそ私がその面白さをうまくつかめない理由で、逆にそれこそがクラスメートたちにとっては胸が弾むくらい面白い理由なんだろう、と。
 わからないから面白い。わからないことがほんの少しでもわかるから楽しい。それは、私にだって理解できないわけじゃなかった。
 それに私にとっても、リリアンかわら版はこうした微かな頭痛の種という面がなくなったわけではなかったけれど、だからといってなるべく避けたい、避けようと思うものではいつしかなくなっていた。
 私の性格上、興味が現実感の伴う方に向かうとすれば、私には「誰よりも」と言ってもいいくらい現実感にあふれた人がリリアンかわら版には関わっていたのだ。
 『薔薇さま』は知らないけれど、『リリアンかわら版編集長』なら知っている。
 小説に例えるならそれは、ストーリーや登場人物には興味はないけれど、作者が知り合いだから読むという感じ。もちろんそれはだいぶ間違った読み方だとはわかっていたけれど、でも、そういう見方なら私にもそれが単なる厄介なものでなくなったのだから、それも全部が間違いというわけじゃないと思う。
 高等部に上がってから毎日忙しそうにしている姉が、かわら版をまるで生きがいのように感じていることは誰の目にも明らかだった。忙しそうにしつつも、とても楽しそうに、成績が落ちるくらいに熱中しているのだから、それは逆にもうちょっと冷静になった方がいいと言いたくなったくらい。
 お姉ちゃんがしていることはどんなことなんだろう? お姉ちゃんが書く文章ってどんなものなんだろう?
 姉のお姉さまが言っていた「三奈子は面白い」という言葉や、クラスメートのうきうきとした表情だってそういう意味では私の興味を後押ししていた。でも……。
「中等部でもかわら版が流行ってるなんて、なっちゃんは鼻が高いでしょ?」
「……」
 そんなちょっとずれた姉の言葉は置いておくとして、姉以外にもリリアンかわら版に関わる人を私は知っていた。だから、私がそんな風にかわら版に興味を持つようになった理由は、姉というたった1人の存在に支えられていたのではきっとないのだろう。
 私は自分の中で少しずつ膨らんでいる気持ちをこのときは自覚していなかった。ただ、かわら版に興味を持っていることを姉に知られないように、姉から見せてもらうことはせず。クラスメートにも私が興味を持っていることを悟られないように、それまでどおり素っ気なくかわら版には目を通した。
 真美さまはどんなことをしているのだろう? 真美さまが書く文章ってどんなものなんだろう?
 そして目にした真美さまの文章は、姉のものと違ってちょっと硬くてちゃんと新聞記事だった。もちろん書いてあることはリリアン女学園高等部にまつわることだから、「硬い」と言っても本物の新聞ほどじゃない。楽しさもちゃんと含まれているもの。私にはそれが、真面目一辺倒じゃないとても真美さまらしい文章に思えた。
 そして私は、登下校時の読書の習慣で文章慣れをしていたから、ちょっと硬い文章でも全然平気だった。


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