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 あの、『なつちゃん』って言いにくくないですか?
 あとから思い返すと、私がその人に向ける興味に変化が起こったきっかけはきっとこの質問だったのだと思う。
 「なつちゃん」と。私を「っ」ではなく「つ」で呼ぶ人はその後も増えることはなくて、その人1人のままだった。山口真美さま1人だけ。
 それはある日、そういう場面としてはいつもどおり偶然に姉と帰りが一緒になったときのこと。その日、どうやらそれまでまったく気付いていなかったらしい姉が、何かの拍子にその普通じゃない呼び方に気が付いてつぶやいたのだ。
「なつ……ちゃん。なつ、ちゃん?」
「……」
 きっと物心つく前から「っ」の方で私を呼び続けていた姉にとって、それは耳にするのも口にするのもひどく不自然な呼び方だったのだろう。私自身、苦心している姉に輪をかけて姉からそう呼ばれるのは違和感たっぷりだったわけだから、それは私たち姉妹の共通の認識だったのだと思う。
「?」
 ただ、そんな私たち姉妹とは違い、自然とそれを口にすることができる真美さまには、きっとそんな風に引っかかっている私たちこそ不思議に映ったのかもしれない。
「どうかなさいましたか? お姉さま」
 そう問いかける口調は本当に何もわかっていない様子だった。
「ねえ、真美。どうしてあなた『なつちゃん』って呼ぶの?」
 そして、姉の言葉に重ねて、私も聞いたのだ。
「あの、『なつちゃん』って言いにくくないですか?」
 すると、真美さまは少しきょとんとした表情で私たちを交互に二度見てから、確認するように2つの「つ」を1度だけつぶやいた。
 なつちゃん。なっちゃん。
 そして、ほんの軽く首をかしげ答える。
「うーん……、確かにちょっと『なつちゃん』の方が呼びにくい、ですね」
 それは果たして、どのくらい本当の感想だったのだろう。私には真美さまの口から出た2つの呼び方は、どちらもよどみなく自然にしか聞こえなかった。だから私は、真美さまにとっては「つ」が大きくても小さくても変わりはないように思えていたのだ。
 でも、仮にその「呼びにくい」という感想が姉や私ほどではなくとも真美さまも共有しているものだとしたら、どうしてわざわざそっちを選ぶのだろう。姉のお姉さまだって真純さまだって、私のことは姉と同じように「っ」の方で呼ぶ。それなのにどうして?
 そんな私(と姉)の疑問に対する真美さまの答えは思ってもみないものだった。真美さまは「特に深い理由はないんですけど」と少し困ったような前置きをして、それでもはっきりと言ったのだ。
「ただ、『なつちゃん』の方が失礼がないというか、正しい気がしたんです」
 お姉さまの妹とはいえ、馴れ馴れしくしたら嫌われてしまうかもしれませんし、と。
「……大げさね」
 そんな明らかに気を回しすぎな真美さまに、姉がようやくそう返すまできっと3秒くらいかかった。
「そうですか?」
「そうよ」
 真美さまはほんのちょっと恥ずかしそうな苦笑でそれに応えていた。そのとき私は、まだ呆気に取られてぽかんとしていた。「ね? なっちゃん」と、向けられた視線にあわてて「うん」と同意する。
 すると、今度は逆にそんな私に問いが返された。
「『なつちゃん』じゃダメ?」
 そうして小さく聞いてきたときの真美さまの「なつちゃん」、そこにもつっかえる様子なんてまったくなかった。それは当然とさえ言えるような本当に自然な響き。だから私の答えも、自然に導かれたのだろう。
「ダメなんて、そんなことないです。そのまま、呼んでください」
 もう耳に慣れた大きな「つ」。私は、私のための理由があったその「つ」には、大きなままでいてほしかった。


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