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例えば母や姉が面白おかしく話していたからといって、それが全ての人にとって面白おかしい話題というわけではないのだ。
思い込みや先入観、それがとても怖い落とし穴であることを私はこのとき知ったのだと思う。
「ごめんね」
小さくそうつぶやいて真純さまは私の頭を軽く一撫ですると高等部の校舎に足早に入っていった。強張った表情は幾分和らいでいたように見えたけれど、私の胸はかえって痛んだ気がした。
母や姉と真純さまとではどちらが特殊なのか、私には何となくわかっていた。だから人を選びさえすればそれはごく普通に話すことだってできるということも理解していた。ただ、それはクラスメートと話したいことではなかったし、上級生であっても中等部の生徒という時点で私には対象外だった。
高等部で私が知っている人は姉と、姉と関わりのあるごくわずかしかいない。だから私は、真純さまの表情にまた少し落ち着かない気持ちが心の中で存在を主張してはいたけれど、その問いは胸にしまうことにしたのだ。そもそもそれを聞きたい人は決まっていたのだから、その人に会ったときに聞けばいい。そう思い直して。
翌日は真純さまと一緒にはならなかった。その翌日には一緒になったから本の話をした。そのとき私は、また同じ時間に戻れたのだと思ってきっと嬉しかった。
そしてさらにその翌日のこと、機会が巡ってきた。
それを思いのほか早いと感じたのは、今度は私が意気込んでいなかったからに違いない。
「なつちゃん、よね?」
小さくかけられたその声だったけれど、「つ」が大きいことの確かさには疑いようがなかった。
なつちゃん、と。やっぱりあの日、私が聞き違いをしたわけじゃない。その人は間違いなく、他には誰も呼ばないその呼び方でその日もまた私を呼んでいた。
「あ。ごきげんよう、真美さま」
「ごきげんよう。ちょうどよかったわ。ねえ、お姉さま……あ、ごめん、えーと、三奈子さま見なかった?」
「?」
それは私に気を遣ったのだろうか。れっきとした姉の妹であるその人がわざわざ姉の呼び方を言い直したことが何だか妙におかしくて、その場所が図書館だというのについ私はくすりと笑ってしまった。
あわてて口を押さえると、今度はそんな私がおかしかったのかその人がちょっと笑ってしまって、結局私たちはそそくさと図書館を出ることになった。
「お姉ちゃ……、姉がどうかしたんですか?」
「ええ、ちょっとね。でもその前に、なつちゃん」
その人はきりりと少し真面目な顔を作る。真っ直ぐに見つめられた私には一気に緊張が走った。
「はい」
何か注意でもされるのだろうかと考えて、この前のことにはっと思い当る。言われる前に謝らなきゃいけなかったのにすっかり忘れていたなんて……。
私は後悔しながら反省して、叱られる覚悟もした。すると、なぜだかその人は苦笑いの口許をわずかに緩め言ったのだ。
「お互い、言い直すのやめない?」
「え?」
その言葉の意味が私はすぐには理解できなかった。それから少し考えるとようやくその意味がわかって、私はほっとして少し力が抜けた気がした。
「あ、はい。そうですね」
そうして私もちょっと苦笑いでその提案にうなずいたあと、この前のことを謝るとその人は「今度からは無視しちゃいやよ」なんておどけて返した。
思い込みや先入観、それはとても怖い落とし穴だ。だって、知りもしないのに最初から期待してないなんて思って避けていたら、こんな風に山口真美さまは案外面白い人かもしれないってことにも気付けなかったんだから。