− 7 −

 上級生に挨拶を返さない下級生は咎められて当たり前だと思う。
 それなのに、姉はそんな私を注意することはなかった。普段から目聡くて耳聡い姉は、そのこと自体に気付かなかったのか、気付いていてあえて何も言わなかったのか、そのどちらだったのだろう?
 そして、もしもそのとき注意を受けていたら、私は別のことを考えるようになっていたのだろうか?
『なつちゃん』
 聞き慣れないそれを家に帰るまでは心の中で何回か、家に帰ると自分の部屋で1度だけ口に出した。
「なつちゃん」
 でも自分の口から出たそれはびっくりするくらい不自然で、そのひどい違和感に私はつい笑ってしまった。
(言いにくいよ。『なつちゃん』って)
 それは大げさに言えば驚きさえ含んだ発見だった。「つ」が大きくなると後に続く「ちゃん」とのバランスが崩れるのだ。
 私はこのとき、いつでも自分が小さい「つ」の方で呼ばれていたことに妙に納得することになった。だからきっと、そうして漏れた笑いもそれが思っている以上に、私にとって新鮮で面白かったということを表していたのだろう。
『なっちゃん』
 生まれてからずっと、いつも私が接してきた私を呼ぶ声は間違いなくこれだった。
 両親も姉も親戚も友達もほとんど例外なく皆、私をそう呼んで、そう呼ばないのは学校の先生やシスターくらい。中等部から入学してきた同級生だって、ある程度仲良くなれば私は「なつさん」から卒業していた。
 名前で呼び合うリリアンではあだ名が付くというのは珍しくて、それが子どもの頃からずっと変わらないともなればなかなかのものじゃないだろうか。それがたとえ本名とほんのちょっとの違いしかないあだ名であったとしても。
 当たり前のもの。
 例えば空気を好きか嫌いかなんて尋ねられても、「好きとか嫌いとかじゃなくて必要」としか答えられないだろうけど、もしも質問がその当たり前の呼ばれ方についてだったら、私は「必要」よりずっと積極的な答えを返すと思う。当たり前のものはいつもそばにあるから普段は好きとか嫌いとか考えたりしていないというだけのこと。
 なっちゃんとなつちゃん。「っ」と「つ」。
 一見すると同じもののようにも見えるその2つのものも、それは似ているだけでちゃんと違いのある別のものだ。
「……そっか」
 発見は発見を呼ぶのだろう。私の思考が次に行き着いたのはごくごく単純な、だけど実はすごく大切かもしれないことだった。
 「築山三奈子の妹」という風にくくれば同じとだって言うこともできるその人と私はもちろん同じじゃない。だとしたら、「築山三奈子のスール」という意味で同じ2人だって同じであるはずがないのだ。
 知りもしないで最初から期待してないなんて、私は何て失礼で、バカな考えをしていたのだろうか。
「なっちゃーん。ご飯よー」
「あ、はーい」
 当たり前の方の呼ばれ方に、このとき私はいつもよりほんの一瞬だけ反応が遅れた気がした。
 私を「なつちゃん」と呼ぶ人。夕食のあと、その日の日記に「お姉ちゃんの妹になった人に会った。」と記した私が、そこに書き加えられた私自身で見つけたその人の特徴は、まだたったそれだけだった。


前のページへ / ページ一覧へ / 次のページへ