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 あ、私この光景前にも見たことある……。
 そのとき私は、まだ「既視感(デジャブ)」という言葉を知らなかった。ただ私はその感覚の中にいながらも冷静で、そんな風に感じる理由を推測する余裕があった。だって、こんな状況は前にもあった。約1年前のちょうど同じ時期に。
 普段一緒になることのない姉と偶然帰りが一緒になる。姉の隣に姉と同じ制服の見覚えのない人。そして私は直感的に理解する。
 そう、これだけ同じ状況が重なれば本当は出会ったことのない光景であっても、それを以前に経験しているようにも思うものだろう。
 だから私はそれを不思議だとは思わなかった。それはいずれ出会う予想の範囲の出来事。ただ、そんな私にはそれによってこれから先も同じことが繰り返されるとしたら、と先回りして考える余裕が生まれてしまったから、そのとき私は自分の心にわずかな苦味が落ちてきたのも感じていた。
 胸が躍るようなことはもちろんない。緊張はほどほどにあるかもしれないけれど、そうして1度経験していることと思ったからだろうか、それだって大したものではなかった。
 相手が4歳年上でも2歳年上でも、姉の姉でも姉の妹でも、私とっては違いなんて特にないのだろう。もしも差があるとしたら、これから挨拶を交わす人は私が高等部に上がったときに、まだそこにいるということくらいだろうか。
 私は中等部で過ごすうち、先輩後輩という上下関係がリリアン女学園では厳しいことを知りはじめていたから、いつもよりも少し姿勢を正してその人に向き合った。
「ごきげんよう。はじめまして」
 私から先に挨拶をする。それが礼儀だと思ったということももちろんなくはなかったけど、どちらかと言えば、それは私が全てが同じことの繰り返しになることを望まなかったからだと思う。
 私は、おそらく姉のことだから相手はもう知っているだろうと思いながらも「築山なつです」と自分から名乗った。
 そして、その人はやっぱり私のことを知っていたのだろう、特に驚きや困惑を表情に映すこともなく挨拶を返してきた。それはまるで1年前、私が聞いたそれを知っていてあえて同じ言葉を選んだとさえ思えるもの。
「ごきげんよう。はじめまして。なつちゃん」
(……)
 心の中の苦味は少し増した。私のちょっとした工夫はやっぱり意味をなさなかったと感じざるを得なかったのだ。だからもう私にはそれから先は繰り返す状況から外れる努力をしようという気は起こらなかった。
 そういう風に決まっているのなら、別にそれでいい。元々特に期待なんてしていなかったのだし。
 その帰り道。私はほとんど無言になり、その人と目を合わせることもしなかった。その人は当たり前のように姉を「お姉さま」と呼び、姉は当たり前のようにその人を「真美」と呼んでいた。それらは全て、私にとっては繰り返しでしかなかった。
 そう、私はそのとき気付いていなかったのだ。その人の言葉は本当は繰り返しなんかではなかったことに。ほんのわずかだけれど、そこには確かに違いがあったということに。
 私がそのことに気付いたのはその人との別れ際、もう一度それを耳にしたときだ。その人は「ごきげんよう」や「お姉さま」と同じように、不自然さなんて欠片もなくただ自然に私を呼んだのだ。
「なつちゃん」
 それは文字数で言ったなら1文字分にも満たない本当に本当にわずかな違い。
(……え?)
 だけど、その違いに気付いて当たり前の「ごきげんよう」を返すことさえそのとき忘れてしまった私にとって、そこにあった驚きが1文字分なんかよりずっと大きなものだったことは、きっと間違いなかった。


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