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「また教わっちゃったわね」
 そう言ったきり、いや、自分のかばんにかわら版をしまおうとしたときに「あ、なつちゃん。これ、いる?」と聞いたきり、真美さまはかわら版のことも、マリア祭のことも、山百合会のことも、もうその全部が解決したかのように何も口にしなくなった。
 私がそれに「ください」と答えなかったのが悪かったのだろうか。そのいくつもの問題も目の前のテーブルの上にさっきまであったかわら版と一緒に真美さまのかばんにしまいこまれてしまったようだった。
 ずっ、ずずずーっと、静寂という言葉のよく似合うミルクホールに、その音は思った以上によく響いた気がする。自分のジュースをひどく美味しそうに飲み干して、真美さまはゆっくりと微笑み直した。
 最後の1滴まで味わおうとする物を大切にする姿勢と、行儀とか作法といった観点はどちらが重要なのか、それはいくらか考える余地のあるところではあると思うけれど、このときの私にはそんなことはどうでもよかった。
 自然と表情が和らぐ。そんな真美さまのたたずまいは、真美さまの中で何かが収まるべきところに収まったという証明のよう。それはもちろん何かに悩み込む姿を見るよりはずっといい。
 ただ、こんな風に思うことは私のわがまま以外の何物でもないとわかっているけれど、私には単純には喜べない光景でもあったのだ。それはどこか、あの日同じこの場所で真美さまを遠く感じたその瞬間に似ていて。
 何が「やっぱり」で、その「やっぱり」はどんな風に「なつちゃん」とつながっているのか、私には全然わからない。
 だから私は、それまで真美さまに合わせるようにしていたジュースに手を伸ばすタイミングも、そのときは合わせはしなかった。私が飲みきらないうちは、真美さまは席を立たないでくれると、そう思ったから。
 言うべきことは言わなきゃいけない。口をつぐんでいても話は進まない。
 でも、じゃあ何と言えばいいのだろう? 話が終わっていないと思っているのは私だけ。それがどんなに稚拙なものでも、私は真美さまに答えを返してしまったし、どうしてか真美さまはそれに満足してくれた。だとしたら何と……。
 そのときだった。真美さまはふと窓の方に顔を向けて、遠くを見るように目を細めるとつぶやいた。
「いい天気ね」
 とても穏やかで、どこまでも優しい笑み。
 その一言に私は身体の力がすうっと抜けた気がした。「待っててあげるからゆっくりでいいわよ」と、そう語るような横顔は、私のその消極的な足止めと、その焦りを全部見透かした上でなお包み込むような、そんな温かさに満ちていたから。
 胸がなぜだかひどく熱くなった。
「……そうですね」
 相づちを返して、私はその胸の中にしまうように残りわずかの自分のジュースをゆっくり吸い上げて、ちゃんと味わいながら飲み込んだ。飲み干すと、口の中にはまたその後味が甘く残った。
 心変わりの理由。それは私が気付いたから。真美さまは間違いなく待ってくれる。それこそ2本目のジュースを買ってでもきっと。
 だけど、私はこの先どんな風に話を続けたとしても、真美さまの語る「なつちゃん」をうまく信じることはできないだろう。真美さまに何かを教えられるような子が築山なつだとは思えない。
 でも、それでもいいんだと私は気付いたのだ。全部わからなきゃいけないなんて、そんなことない。
 例えば、真美さまが忘れ物をしたときに、それが教科書だったら私は何の役にも立てないけれど、ペンや消しゴムなら私だって真美さまの役に立てる。きっと、そういうことだ。
 そして、それに真美さまが「助かったわ」って言ってくれたとき、どんな風に助かったのかなんて聞く必要なんてないだろう。仮に聞いたとしても、納得できるまで聞くなんて役に立った分以上の迷惑をかけるだけだ。
 熱くなった胸の中、私ははっきりとうなずいた。
(そうだよ)
 私の言葉が真美さまの中に残って、真美さまの役に立つ。それはどんなに素晴らしいことだろう。
 私をこんなに見てくれた。真美さまが私をこんなにも認めてくれた。それはなんて幸せなことだろう。
 そのことをただ、私は喜べばいいんだ。
「ほんと、いい天気ですね」
 ガラス越しだけれどわかる雲1つないぬけるような青空に思いを馳せて。テーブルの上、2つの空の紙パックに目をやると私は思った。2本目なんて必要ないと。だって、それよりずっと、今、私にはしたいことができたから。
 この晴れ渡る空の下を歩く。真美さまと一緒に、真美さまと2人で歩ける。それはきっと、2つの傘よりもずっと幸せで、1つの傘よりもずっと誇らしいこと。
 ジュースを飲まないで足止めなんて、後ろ向きなことを考えていた自分がバカらしく思えた。もっと前向きに考えなきゃダメだ。
 日が暮れる前に空の下に行こう。そして真美さまの隣をゆっくり歩こう。ゆっくりゆっくりゆっくり歩こう。
 飛び跳ねるような気持ちを抑えて、私から言った。
「帰りましょうか」
 胸の中で決めたそれが少し恥ずかしかったから、「テスト前ですし」なんて照れ隠しの理由を付けて。


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