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 晴れた空の下だから、傘の空の下で身体を隠していたときよりもずっとちゃんと手を合わせた。
 晴れの日も曇りの日も雨の日も、空模様がどんなものであってもマリア様は変わらない。それは普段は通り過ぎるようなことで、でもたまにそれは何よりほっとすること。そしてそれはごくごく稀にはつまらないなんて思うことでもある。マリア様はこれまでもずっと変わらなくて、これからもずっと変わらないとしても、手を合わす私は1日だって同じ心模様でいることはない。
 このときの私には、マリア様の微笑みはいつもと変わらないものに見えた。もう少し笑ってくれたり、もう少し渋い顔をしてもいいのに、いつもと何も変わらないように。
 もしかしたらマリア様は、私が今どんなに幸せか、わかっていないのかもしれない。
「あっ、すみません」
 私の祈りの方が少しだけ長かったからちょっと待たせてしまった。軽く頭を下げて、そしてまた並んで歩き出す。……ゆっくりと。真美さまの隣を。
 マリア様を挟んで途切れていた会話が、ほんの数歩でまたはじまった。思い出し笑いのような、くすりという笑い声と一緒に。
「読者になつちゃんがいるんじゃ、手を抜けないわね」
 私が読んでいようと読んでいまいと元々手抜きなんてしない真美さまの笑みに私はどう返そうかちょっとだけ迷って、今なら言っても許してもらえそうな方を選んだ。ニヤリとした顔はうまく作れていただろうか?
「ええ。厳しくチェックさせてもらいます」
「それは怖いわね。なつちゃんは本当に厳しそう」
 真美さまは面白がって笑う。たぶん顔もうまく作れていたのだろう。
 でも、真美さまはそんな私よりもやっぱりずっと上手なのだ。「まあ、怖い。怖い怖い」と大げさに言ったと思えば、「なつちゃん怖い……怖い、なつちゃん」なんて細い声で繰り返しささやいて。
「そんなことないです。そんなことないですから」
 と、結局根負けした私が止めるまで、私をからかい続けた。しかも、そのくせ私があわてて否定したら今度は全然違う顔で笑うのだ。
「わかってるわよ」
「……」
 揺るぎない自信がはっきりと見える表情。私は言葉にならなかった。だってそれは、真美さまが「築山なつ」という特別な取り柄なんて何もない子を、確かに信じている笑みだったから。
 私はただ深く思った。真美さまもマリア様と一緒だって。きっと真美さまはわかっていないのだ。私が今どんなに幸せなのかを。
「でも、お姉さまじゃないけど、私も嬉しいわ。なつちゃんがかわら版を読んでくれてるって」
 こんなことを言われて、何と返せばよかったというのだろう。真美さまはマリア様とは違う。はっきりと私に届く言葉を喋ることのできる真美さまは、マリア様よりずっと私の心を揺り動かす存在。通り過ぎることなんてできない。嬉しかったり哀しかったり、ほっとしたり切なかったり、真美さまはいつでもこの胸を震えさせて。
「……いえ、そんないつも読んでるわけじゃ」
「いいんじゃない? それで。いつもじゃなくても嬉しいものは嬉しいし」
「……」
(そんな……)
 また何も言えなくなったそのときバス停が見えて、ちょうどそこにバスがやって来るのも見えて、私はすぐに「ゆっくり」をやめて駆け出した。真美さまの言葉がいくつも胸に響いて居ても立っても居られなくなった、たぶんそんな心境だった。
 駆け出す前から大きく動いていた心臓が、もう少し大きく鼓動を打つ。先生やシスターに見られたら咎められるくらいの小走りだったけど、胸の中で跳ねる鼓動の方がずっと速くて、追い付けそうになかった。
 バスを捕まえて、早足でついてきた真美さまと一緒に乗り込むと2人で深呼吸する。でも。
「ありがと、なつちゃん」
 真美さまがそうやって笑いかけるから、広い空の下の2人きりでもなくなったのに私の心臓は全然鎮まろうとしてくれなかった。
 バスに揺られていた間、私は何を話しただろう。ただ幸せで、それ以上何も覚えていない。あともう少しでこの時間も終わってしまうんだと、それさえ考えていなかった。
 そして、バスから電車に乗り換えて、本当に終わりの時間が来たその別れ際のこと。
「どうして私に聞こうと思ったんですか?」
 私は尋ねていた。
 記事にしなかった取材の内容を他に明かしてしまうことは記者としてはよくないことのはずだ。それなのにどうして私なんかに……。
 真美さまが私の言葉、私の考えを必要とする、心の中にはやっぱり信じられない気持ちが強くて。
 アナウンスとベルの音が、別れ間際にそんな質問をした私をたしなめるように響く。それは真美さまにとっては、早くしなさいと急かすような響きだったかもしれない。
 だけど、その答えを返してくれるとき。真美さまの瞳に、声に、見えた色は焦りじゃなかった。微笑みにほんのわずかな硬さ。
「なつちゃんは他の子とは違うから」
 ……私にとってはね。
 ドアが真美さまと私を隔てる一瞬前。その言葉は私の心の中にずっと残り続ける言葉だった。


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